日本共産党嶺南地区委員会 > しんぶん赤旗 > “福島に生きる” “漂流”再び 戦前と同じ・・浪江町 津島訴訟原告 飛田実さん(80)、ヱチ子さん(75)

“福島に生きる” “漂流”再び 戦前と同じ・・浪江町 津島訴訟原告 飛田実さん(80)、ヱチ子さん(75)

戦争体験を話る飛田さん夫妻
戦争体験を話る飛田さん夫妻

 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町津島地域から茨城県城里町に避難している飛田実(ひだ・みのる)さん(80)と妻のヱチ子さん(75)は「何でここに来たのかなぁ」と望郷の念に駆られるといいます。

 「二度にわたって大きく揺れた」東日本大震災。農業委員をしていたころ東通(青森県)、女川(宮城県)の各原発や青森県六ケ所村の核燃施設などを視察したことのある実さん。情報が全く入らない中で「原発は大丈夫だろうか」と不安がよぎりました。

 翌3月12日、愛知県岡崎市から次男が家族の無事を確認しに帰ってきました。

 浪江町から飛田さんらが住む津島地区への避難指示が出され、浪江町内に住む娘の家族やその親族、双葉町の妹家族、友人など20人近くが避難してきました。

■やり方国民無視

 後に判明するのですが、津島地区は安全どころか同地区方面に放射能が拡散していました。国は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の調査データでそのことを把握していたのに、住民には意図的に隠されていたのです。「国や東電のやり方は戦前の大本営発表と同じ国民を無視するやり方だ」と実さんは怒ります。

 3月15日早朝、全員で二本松市方面に向かいました。その後、猪苗代町、次男が住む岡崎市へと避難しました。

 飛田さんたちの″漂流″はその後も続きました。岡崎市に1年、茨城県水戸市に1年、そして現在の城里町へと転々としました。

 「幼いころに命の保証のない中国大陸を逃げまどったときと同じだ」と胸が痛みました。

 実さんは、戦前に国策ですすめられた満蒙開拓団として中国東北部の古林省に移住した戦争体験があります。

 母はアメーバ赤痢にかかり中国で死亡、兄はソ満国境警備部隊の通信兵として召集され、戦死しました。

 生と死のはざまをくぐりぬけて1946年7月、京都府の舞鶴港に帰国。父親の生家のある福島県船引町(現田村市)に戻りました。47年の春、当時の津島村の国有林開拓のため入植。くわ一つでの開墾でした。

 高校卒業後、運送業、建築業などを営むかたわらモモ、ナシ、リンゴなど各一反歩の果樹園を造りました。

 「高いところでは毎時7マイクロシーベルトもある」。今の自宅周辺の放射線量です。4年8ヵ月たっても「帰りたくても帰れない。孫たちにどんなことを話して悔しさを伝えればいいのか」と心を痛めています。

■「憲法の原点に」

 幼少時に強烈な戦争体験をした世代です。

 「侵略戦争をした日本。その反省にたって平和憲法をつくった。この原点に立ち返るべきです」と強調する実さん。「日本はおかしくなっています。共産党の志位さんがいう戦争法を廃止する『国民連合政府』をつくろうという呼びかけは大歓迎です。私たちは戦争の苦難、原発事故の苦難と二重に体験しました。原発はゼロに、安倍政治は終わりにしないといけません」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2015年12月13日より転載)