福島県国見町に住む木戸大治(だいじ)さん(75)は、5歳のときに「模擬原爆」の投下を間近に受けました。その体験を「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団の証言集・第3集に次のように書いています。
■57年後に知った
「1945年7月20日、私は兄弟3人で50キロ離れた井戸から水汲(く)みをしていたとき、突然地響きと『ズシーン』という重低音とともに顔面と頭に砂みたいなものが当たった。農作業中の14歳の青年が爆死した」
これが長崎型原子爆弾の模擬爆弾の投下だったことを知るのは「体験から57年もたってからです」。日本に落とされた模擬原爆49個の一つだったと、福島県内の平和活動家から教えてもらったのです。
当時、福島製鋼で働いていて首切りにあった木戸さん。青年運動に加わりました。61年、山本薩夫監督の映画「松川事件」のエキストラとして参加しました。
「自分も謀略事件、えん罪事件に巻き込まれるかもしれない。松川事件の現地調査に参加して、真実を見極めるためには勉強しないといけないということを痛感しました。松川闘争に感謝しています」
63年に上京。東京・新橋の「平和と労働会館」内にあった印刷会社で働きました。労働組合や民主団体の印刷物を扱っていて、「核廃絶、原爆反対、原発反対」の記事を毎日のように目にしました。そのため、「福島原発建設、特に第2原発建設には反対の問題意識を持っていた」と言います。
定年退職後、福島県に戻りました。義兄の桃畑で農作業の手伝いをしました。
義兄は、「3・11」後に桃作りをやめました。「風評被害で価格が暴落。踏ん切りをつけた」のです。270本あった桃の木を全部切り倒してしまいました。
■原状回復させる
「桃の世話をしていたころは充実していました。その仕事がなくなって空虚感を感じます」。訴訟に加わったのは、「国と東京電力に、きっちりと責任を取らせて、原状を回復させる。うやむやにさせない」ためです。
楢葉町の公務員だった木戸さんの義姉は、原発建設に賛成でした。「3・11」当日、東京電力主催の「研修旅行」で箱根に行っていました。奥会津の長男宅や東京の親戚の家などを転々として、2週間後にいわき市で借り上げアパートを探して現在もいわき市に住んでいます。「3・11」後は、「再稼働はやめるべきだ」と考えるようになったといいます。
「この4年間は運動に、まい進せざるを得ませんでした」と話す木戸さん。「5歳のときに受けた模擬原爆が本物であったなら生きていなかった。広島、長崎、福島と根っこは同じです。再稼働反対、原発ゼロヘ最後までたたかっていきます」 (菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」201年4月26日より転載)