大内孝夫さん(82)も、福島県旧新殿(にいどの)村(現二本松市)から中国黒竜江省訥河(のうほう)県下学田に満蒙開拓団として入植した体験を持ちます。
11人家族で『満州』(中国東北部)に行き、生きて帰れたのは3人だけでした」といいます。
1945年8月9日、ソ連軍の満州侵攻で、開拓団は大混乱になりました。
開拓民を守ってくれるものと思っていた関東軍は、新京の総司令部を250キロ南の通化に移すことを決定。「満州を放棄」し「朝鮮の防衛」に当たることにしたのです。開拓民を置き去りにして、真っ先に退却してしまったのです。
いつでも死ねる
9月5日、開拓団に「ソ連兵が来た」と伝えられました。「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めをうけず」という軍人の「戦陣訓」が開拓団のなかで強調されて、集団自決することが申し渡されました。
毒薬が配られて、母が子に、祖父母が孫に手をかける悲劇が起きました。大内さん一家は、隣組の長老から「いつでも死ねる。まだ飲むな」と指示されて、自決の列には加わりませんでした。
「生き延びたものは、父と弟と3人だけ」。中国から帰国までの1年は「地獄と呼ぶのも生ぬるい逃避行でした」。
46年11月、長崎県の佐世保港にたどりつきました。しかし、弟は寒さと飢え、「気が狂わなかったのが不思議」な状態に置かれて1カ月後に亡くなりました。
大内さんは、福島県いわき市小名浜で家具職人などをした後に、48年9月、浪江町南津島に父と2人で開墾に入りました。
終戦後の食糧増産、復員軍人・海外引き揚げ者・戦災者の就業確保のために行われた国策としての開拓事業で入植したのです。
小屋を建て、まきを集め、炭焼きをして売りました。
国から与えられたのは3町歩(約3ヘクタール)の山林。住居はササで囲った粗末な小屋。
「この苦労は体験した人でないと分からないだろう。早く死んだ方がよかったと思ったこともあった」
51年、五月さんと結婚。4人の子どもを育てました。
畑は3ヘクタールまで広げ、水田も40アールを買い、「ご飯も食べられるようになりました」。94年に家も建てて「終(つい)の住み家」と思っていました。
「3・11」の日、激しい揺れで、軽トラックに乗り避難しようと思ったものの乗れません。翌日、福島市内の次男の家に避難するために普通なら1時間で着くのが4時間以上かかりました。
福島市のアパートに半月、二本松市の雇用促進住宅に半月。そして現在の杉内仮設住宅と転々としました。
戦争も再稼働も
「古里の津島に戻ることはもうできない」と、「(原発は)安全だ」と言い続けた国の裏切りに落胆します。
「こんなことは二度としてほしくないです。放射能はダメ。おっかない。戦争も、原発の再稼働もやってはならない」
(おわり)
(「しんぶん赤旗」2015年1月28日より転載)