「野菜も電気も畑から」・・。耕作しながら太陽光発電をすすめるソーラーシェアリングに注目が集まっています。提唱者、長島彬さんの実証試験場=千葉県市原市=を訪ねました。
(君塚陽子)
試験場の畑には、ブロッコリーが青々としています。パイプで架台を組み、畑の上、高さ約3メートルに太陽光パネルが置かれています。思ったより簡素な作り。パネル同士の隙間が広く、下にいても圧迫感がありません。
「私の考えは農業が基本。農家の人たちが簡便に作れるような設計にし、遮光率は約3割です」と長島さん。発電1、作物2の割合で日光を分け合うように考えた結果だといいます。
農業機械メーカーの元開発技術者の長島さんは「機械としての設計構造上に多くの無理がある原発は、20世紀最大の失敗」と言い切ります。
原発に代替するため、大面積を必要とする太陽光発電の″最大の弱点″を何か克服できないかと考えた長島さんは、「光飽和点」(ひかりほうわてん)の存在を知り、この方法の着想を得ました。「光飽和点」とは、光が強くなってもそれ以上光合成量が増加せず一定になると考えられる点です。
「光のすべてを作物が使っているわけではないのだから、太陽のエネルギー(solar)を分かち合う(sharlng)という意味で″ソーラーシェアリング″と名付けました」
ソーラーシェアリング・・畑の上「みんなの発電所」 地域再生の切り札に
再生可能エネルギーの普及は、原発ゼロ・温暖化ストップのために急がれています。しかし、山林を切り開いた大規模な太陽光発電所は本末転倒で災害を助長しかねません。ソーラーシェアリングはその点でも脚光をあびています。
陰の成長良好
長島さんは4年半前に千葉県市原市に実証試験場を開き、日照時間の差による作物の出来具合を観察してきました。すると、光飽和点が無いといわれるトウモロコシでさえ、一日中、日に当たる株の方が暑さによって成長が悪く、一定のパネルの陰になる株の方が良い、との結果になり、驚いたと言います。
「ソーラーシェアリングによって、毎月安定した売電収入が得られ、農業経営が安定し、魅力ある仕事として農業が発展することが私の願いです」と長島さん。
2004年にソーラーシェアリングの特許を出願しましたが、06年に特許が公開されて以来、特許を取らず公知の技術としたため、現在、さまざまな会社が参入しています。
農水省は13年3月末、ソーラーシェアリングについて、条件付きで農地の「一時転用」を認めました。全国で100ヵ所ほどに広がり始めています。
長島さんは「今年は、より耐久性を向上させた製品を開発し、さらに普及したい」と語ります。
市民発電所に
「畑の上のみんなの発電所」・・。ソーラーシェアリングを″市民共同型″で進める動きもあります。
千葉県匝瑳(そうさ)市の飯塚開畑地区。40年前に山を切り開いた畑が広がります。
「当時は″希望の光″でしたが、いまは耕作放棄地の広がりに悩んでいます」というのは、地元で農業を営む椿茂雄さん。椿さんも参加する「市民エネルギーちば合同会社」が手作りしたのは35キロワットの「匝瑳市民発電所」。1枚、2万5千円からパネルオーナーを募集し、みんなで支える仕組みです。
パネルの下は、大豆の収穫を終えたばかりの畑。「0・6反で100キロほど取れたから、まずまず。秋の強力な台風にもびくともしなかった」と椿さんは満足そうです。
「耕作放棄地が広がれば地域の環境も悪くなります。発電収入を得ながら農業も続けられるソーラーシェアリングは地域再生の切り札」と期待を寄せます。
同社代表社員の東光弘さんは「農地を汚す原発はいりません。ソーラーシェアリングを広げて、地域のなかで“お金が回る”ようにしたい」と話します。
復興に役立つ
神奈川県茅ケ崎市では、住宅地の市民農園でソーラーシェアリングが始まっています。NPO法人「ちがさき自然エネルギーネットワーク」が昨年(2014年)4月に設置した「れんこちゃん3号」です。
きっかけはNPOのメンバーの武田俊司さんが長島さんの試験場を手伝ったことです。
「2010年、長島さんから話を聞いたときは半信半疑で、太陽光パネルの組み立てや農作業を手伝い始めました」と武田さん。4年半、ほぼ毎週通うなかで正しさを確信したと言います。
「『3・11』で気持ちが大きく変わりました。原発事故で悲惨なことになってしまった故郷、福島。福島復興に役立てるためにも、このプロジェクトを成功させたい」
市民農園の人たちも最初は半信半疑で無難なイモ類を植えました。十分な収穫があったため、今後はちがう作物に挑戦しようと意気盛んです。
(「しんぶん赤旗」2015年1月4日より転載)