さまざまな願いや思いをかかげて、各地でネットワークが広がっています。手を取り合って進む人たちを追いました。
完全賠償求めて
東京電力福島第1原発事故で全町民が避難生活を強いられている福島県浪江町。
昨年(2014年)11月、住民が手をとりあい、「浪江町津島地区原発事故の完全賠償を求める会」を結成しました。同地区は全域が「帰還困難区域」です。450世帯のうち、半数近い219世帯が現在、参加しています。
原発事故当時、浪江町津島地区は、緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク(SPEEDI)で高放射線量を測定されていました。しかし、その数値は公表されることなく、避難してきた多数の町民や津島地区の住民は被ばくしました。「会」世話人を務める高橋和重さん(55)一家は、いま、福島県本宮市の仮設住宅で暮らしています。
責任明白に
高橋さんの父親は昨年1月に88歳で亡くなりました。
「父は原発事故後、何度も津島に1人で帰っていました。仮設では眠れなかったからです。父は満州(中国東北部)で捕虜になりシベリアに抑留されました。仮設住宅はそのときの収容所を思い出して落ち着かなかったのです」
津島から戻らず、救助隊を要請したこともあったといいます。
高橋さんの父親は、戦後シベリア抑留から帰国すると「飯ごう一つで津島に入植」し、山を開墾しました。
「炭焼き釜の空き釜に寝泊まりし、田畑を耕しました。50年前から鶏卵業を始めました。血のにじむ精魂つくして開拓した土地を離れるわけにはいかなかった」と他界した父の思いを語ります。
「昨年は父を亡くし、喪に服しました。今年は次の一歩を踏み出します。国と東電の責任を明白にさせます」
生きる尊厳
「会」事務局を務める柴田明範さん(48)は「津島ではみんなが顔見知りです。お互いの顔が分かるコミュニティーがあった」と津島での暮らしを語ります。
兼業農家の3代目。35アールの畑でリンドウやブルーベリーなどを栽培し、砕石の発破責任者として働いてきました。
柴田さんは「飯舘村から津島に入植した先祖が手とくわ一本で開拓した土地です。まだ築25年の家も失った」と悔しがります。
仮設住宅の生活で体調を崩し、発破責任者の仕事も失いました。
妻と5人の子ども、両親と妻の母親の10人家族。「今年は家族の笑顔を増やしたい。たたかいを一歩前進させたい」と抱負を語ります。
日本共産党の浪江町議の馬場網さん(70)は、「会」代表世話人です。津島地区で牛6頭を飼い、稲作をしてきました。
「地域はそのまま放置され、3年9ヵ月たってもいまだに除染計画も無い」と危機感を募らせます。
馬場町議は「生きる尊厳を取り戻すたたかいのスタートです」と固い決意を語ります。
(菅野尚夫)
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2015年1月1日より転載)