福島県浪江町から大玉村に避難している池田進さん(68)は、国と東京電力に「悔しさ」を感じています。復興政策が迷走しているからです。
高校卒業後、東京・大田区にあった自動車整備工場で働きました。その後、埼玉県川口市などの部品工場で働きました。
「自分で工場を持ってやってみたい」とふるさとの浪江町に帰りました。33歳のときでした。
それから三十数年。浪江町津島の地元に密着して自動車整備工場を経営してきました。
原発事故から3年9ヵ月たっても工場再開のめどは立ちません。
■移転繰り返す中
「3・11」後、大玉村に引っ越すまで6ヵ所の避難所や仮設住宅などを転々とし、住居が定まったのは今年になってからです。
長男家族と移転を繰り返す中で、長男夫婦は離婚せざるを得なくなりました。「長男の嫁は2人の孫のうち上の子を連れて家をでました。今、私たちは下の孫と息子と暮らしています」と、原発事故のもたらした深刻な被害の一面を語ります。
自動車修理工場にとって地域のコミュニティーが大切です。
「浪江にいたときには5代先の名前が分かりました。友達と別れ、お客と別れてしまい、コミュニティーはバラバラになりました。桜が咲いても美しく感じられなかった3年9ヵ月でした」と寂しそう。
「代替わりしよう」と改築し、息子夫婦に工場を任せようとしていた矢先、浪江町の工場が放射能に汚されました。
「悔しさを晴らしたい」と「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告に加わりました。
池田さんが暮らしていた浪江町津島地区は、放射線量が高線量の帰還困難地域。11月16日には、津島地区の住民約200人が東電に賠償額の積み増しを求める組織をつくり、裁判外紛争解決手続き(ADR)や訴訟で要求実現をはかる方針です。
生業訴訟原告の池田さん。同じ賠償を求める訴訟を二つ起こすことはできないため、妻と息子たちが津島地区の住民と一緒になって参加する決意を固めました。
池田さんは「私たち浪江町の住民が味わった苦しみ、悔しさは最後にしてほしい」と願っています。
■弱いところ狙う
国が原発再稼働や海外輸出などを推進しようとしていることに怒りが収まりません。「再稼働をしたならば、福島のようなことは絶対に起きないと保証などできません」と強調します。
「国は過疎地を狙い撃ちして浪江町や双葉町など福島の沿岸部に原発を造ってきました。弱いところ弱いところを狙って造る。絶対ノーです」と池田さん。「日本は広島、長崎の原爆災禍を体験し、その上に福島原発事故の人災に苦しんでいます。原発ゼロを実現させたい」と決意しています。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年12月23日より転載)