福島県二本松市の菅野雄樹(かんの・ゆうき)さん(25)は、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの3年8ヵ月は「自分を見つめ直した時間たった」といいます。
「3・11」当時、仙台市でスポーツインストラクター(技術指導員)をしていました。体験したことのない激しい揺れ。10階建てビルの2階にあったスポーツジムは、天井が落ちる被害が出ました。
■小学校まで誘導
海の近くにあったスポーツジム。利用者とスタッフを近くの小学校まで避難誘導しました。
「津波が来る」と、体育館から校舎の3階、4階に移動。小学校での避難生活となりました。
ケガをした人の手当てや高齢者の世話をするなどの救援に携わりました。当初は、おにぎり一つを3人で分け合って食べるなど、助け合いました。
4日目以降になると消防車から「外には出ないように」「雨には当たらないように」などと、放射能被ばくに注意する呼びかけがされるようになりました。10日目になり、電気、水道が復旧。アパートに戻りました。
仕事場のスポーツジムは再開のめどが立たず、実家の福島県二本松市に帰りました。
仕事探しを始めました。福島市内の洋服店に就職したものの、1日十数時間にのぼる長時間労働。店頭での接客だけでなく、商品を撮影し、インターネットにアップする作業を任されました。月収は平均12万〜13万円。深夜、早朝まで仕事が続くという状況で、辞めました。「ブラック企業でした」といいます。
■人に役立つ仕事
「復興と人に役立つ仕事をしたい」と、除染作業の仕事に今年1月からついています。
肌を露出させないよう真夏でも長袖、長ズボン、防じんマスクを着けての作業は大変でした。
二本松市の放射線量は、今も雨どいなどは毎時2・1マイクロシーベルトもあります。「住居近くの山林の除染にも取り掛かります。線量は高い。『地域のために役立ちたい』と頑張っていますが、複雑な思いです」
除染など元の古里に戻す責任は、国や東電の責任と考える菅野さん。「東電の社長や幹部が一度除染作業をやるべきだ」と、他人任せに怒りを感じています。
「どう福島で生きていくのか?」。菅野さんの模索は続きます。
「除染の仕事が永遠に続くわけじゃないですよね。早く終わり、安心して生活できる地域に戻す必要があります。その後の仕事をどうするか考えています」と思案中です。
実家は祖父の代までは、タバコや養蚕、牛の飼育などをしていた専業農家でした。
祖母が昨年10月に、祖父が今年10月に亡くなりました。祖父母たちが耕してきた田や畑は、手入れされないままです。
「祖父母たちが耕した田畑に再び生命の息吹をよみがえらせてみたい」。祖父母の死は、新たな目標を示すこととなりました。
郡山地方農民連などの支援を受け先輩からも力を借りて、有機農業の1からの勉強と修業です。除染で働いた給料は、貯金し、新規農業に参入するための資金にしようと思っています。
「安心安全な野菜作りをして喜んでもらう。福島農業の再興に挑戦してみよう」と考えています。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年11月16日より転載)