
「三男(みつお)先生」と呼ばれて慕われてきた福島県いわき市の佐藤三男さん(70)は、小学校の教師を38年間務めました。「子どもたちを再び戦場に送らない」と、戦後民主教育の先頭に立ってきました。
「子どもたちに放射能被害の原発はいらない」と、元の生活を返せ・いわき市民訴訟原告団副団長の重責を担っています。
男3人、女6人きょうだいの末っ子。家は鍛冶屋でしたが、トラクターなどの普及によって、クワ、ナタ、カマなど農機具が売れなくなり鍛冶屋の出番が少なくなりました。「貧乏でした」
■学級通信を毎日
「1人ぐらいは大学を出ていなければ」との親の思いで、福島大学学芸学部(のち教育学部)に入学。「全日本学生寮自治会連合で寮生の生活と権利を守るたたかいに身をおきました。大学1年生のときに福島県で起きた謀略・松川事件の勝利判決がありました」
会津若松市の分校で教師になり、「30人学級の実現、子どもと保護者とどう結びつくか」と心を砕きました。その一つが学級通信「わくわく」の毎日発行でした。学級通信にはこんな反響が-。
「息子は学校のことをいきいきと話してくれるようになりました。先生を通してのいろいろな出来事が新鮮な驚きやうれしさを伴っていたのだと思います」
「三男先生の頑張りが見えているから私も毎日『わくわく』に感想を書かせていただきました。時には主人が、祖母が、おかげで自然に娘と向き会うことができました」
生徒を引率した年1回の登山、父親を対象にした「飲み会」の開催などで、子どもの家庭の事情を知るために努力しました。
教師の体験は、東京電力福島第1原発事故で「低線量下での子どもの将来がどうなっていくのか心配になった」と、退職後も子どもへ思いを寄せることになりました。
2011年4月、復興・復旧をめざす浜通り復興センターの立ち上げ、同12月、原発事故の完全賠償させる会結成。東電との直接交渉と国への要請行動に取り組みました。ねばり強い交渉の後に13年1月、いわき市民訴訟原告団結成。同3月に国と東電に原状回復と損害賠償を求めて提訴しました。
「原発事故で人生が変わりました。定年後は、好きな写真撮影、登山、スキーなど楽しくやろうと考えていました。ところが『原発ゼロ』の活動が最優先となりました」と3年半を振り返ります。
いわき市民訴訟には子どもの原告が222人加わっています。
■全国と連帯して
12年から全国公害総行動実行委員会に参加してきました。「今年の東電・政府交渉では進行役をつとめましたが、東電も、国も、加害意識のないことに怒りを覚えました。公害総行動の中では、戦後最大の公害という位置づけがあり、視野か広くなりました。全国と連帯してたたかえます」
「賠償させればそれでおしまいではない」といいます。勝利判決を取って「福島原発事故被害補償法の制定、補償基金の創設までたたかいとる」。(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年10月6日より転載)