福島市内の借り上げ住宅で避難生活を送る浪江町出身の今野千代さん(62)は、震災後に兄と母を相次いで亡くしました。1年間は遺骨を埋葬することもできませんでした。「この3年半、無我夢中で生きてきた」といいます。
■「資格が必要だ」
今野さんは1974年から昨年(2013年)3月まで39年間、看護師をしてきました。女性が自立して生きていくためには「資格が必要だ」と、看護師の資格を取りました。「母も看護師だった」ことも後押ししました。
岩代町(現二本松市)で生まれ、小学2年生のとき、浪江町に。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から定年退職するまでの2年間は、「野戦病院のような状況だった」浪江町立国民健康保険津島診療所で働きました。
「3・11」」後、人口約1500人の津島地区に沿岸部から約8000人が押し寄せてきて避難を始めました。診療所には、体調を崩した患者、薬を切らした人など通常の8倍、300人を超える人たちが200〜300メートルもの列をつくりました。
診療所の患者さん以外も来診。カルテもない初診者が多く、薬の名前も分かりませんでした。「どんな薬」と聞いても「白い薬」「赤い薬」と明確な答えがなく混乱に混乱を重ねました。
今野さんは、所長の関根俊二医師や同僚とともに診療所に寝泊まりして診察と看護に当たりました。″命の灯台″として次々と診療所には助けを求めて被災者が訪れたのです。
「このままだと命を落としてしまう」。どの避難所も高齢者や介護を必要とする人でごった返していました。
浪江町は、全町避難となり、診療活動も避難者たちと避難先に移動しました。仮設住宅ができると、そこに診療所を開設し、避難町民の健康と命を守るために不眠不休で働きました。
■「再稼働は論外」
「バラバラになった町の人たちは、浪江町の開業医の先生たちも診療所で診ることになり、今まで診てもらっていた先生の当番の日に県外の避難先からも来ました。話を聞いてもらっただけで安心する患者さんもたくさんいました」と振り返ります。「関根先生や同僚と一緒に15年間やってきました。患者さんが元気になってくれることがうれしい」
津島地区に長くとどまった関根医師の放射線量は800マイクロシーベルトにもなりました。当然、行動をともにしてきた今野さんたちの放射線量も同程度に被ばくしたものと思われます。
看護師の仕事を退いた今野さんは、「津島の人たちと話をしたい」と再会の機会を楽しみにしています。
「一緒に津島に帰りたい」。一時帰宅するたびに感じます。「自分の町、自分の家に帰るのに検問を受けなければならない。なぜなの。つらいです。理不尽です」
妹夫妻が川俣町山木屋でやっているトルコキキョウの栽培を手伝っています。
「安倍首相は、浪江町民が原発事故でどんなにつらいことを体験したか知っているのでしょうか。今も先が見えずに眠れない日が続いています。また同じことが起きたらどうするのですか。原発再稼働など論外です」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年9月23日より転載)