─経済産業省原子力安全・保安院(当時)から連絡はなかったのか。
「ないです」
─緊急事態の場合、各省が情報共有のため官邸地下に集まり、保安院がまとめることになっている。保安院が情報を得て、首相などに報告する形で一元化するのが通常の姿だ。
「(吉田氏には官邸から電話があり)何で官邸なんだというのがまず最初です」「ずっとおかしいと思っていました」
─3月13、14日、保安院の職員はどうしていたのか。
「事象(事故)が起こったときは、保安院の方もみんな逃げてきて、(第1原発内の)免震重要棟に入られたんです。それから即オフサイトセンターができたので、オフサイトセンターに全部出ていった」
オフサイトセンターとは、原子力災害発生時に放射線量の測定などの情報収集活動の拠点施設で、福島第1原発から5キロ地点の大熊町にありました。政府の現地対策本部(本部長は経産副大臣)が置かれました。
─12日、1号機のベント(格納容器の圧力を逃がすための排気で、放射性物質を放出する)の時、住民避難との調整はどこが。
「避難みたいな話は、本来はオフサイトセンターがどうするんだということを決めるのが原災法(原子力災害特別措置法)の基本理念だと思っているんですけれども、そこが何も判断しませんから、うちは本店から話があって」
─センターに東電と国と県の人は来ているが、調整を図ることはしていなかったと。
「はい。私は全く存在感を感じませんでした」「避難だとか、本来原災法的な仕事の話をオフサイトセンターの方とした記憶は全くないです」
オフサイトセンターは地震の影響で電源喪失状態に陥り、立ち上げが遅れ、放射性物質を遮断する空気浄化フィルターがないために15日、福島県庁に移転。その間、機能しませんでした。規制当局のはずの保安院も迅速に情報を集める積極的な行動を起こしませんでした。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2014年9月20日より転載)