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“福島に生きる”被災者の目線わすれず・・いわき市民訴訟原告団事務局員 菅家新さん(63)

 

「避難者に寄り添った支援」を心がける菅家さん
「避難者に寄り添った支援」を心がける菅家さん

 元の生活をかえせ・原発事故被害いわき市民訴訟原告団(伊東達也団長)の事務局員を務める菅家新(かんけ・あらた)さん(63)は、大詰めを迎えている訴訟の完全勝利に向けて多忙な毎日です。

 南会津町の専業農家の長男として生まれた菅家さんは、農業を継ぐ覚悟でしたが、国の減反政策のなかで「農家では食べていけない」ことを悟りました。教師を志し、大学で数学を学び、卒業後、千葉県で教師になり、その後、郷里の福島県で高校の数学教師に。

 「3・11」は「高校入試の判定会の日に遭遇」、生徒と教師仲間の安全確認など、混乱の中で生活し、次の年の3月で定年を迎えました。

■多忙な日々が

  定年後は一服する間もなく、ふくしま復興共同センターの設置、原発事故の完全賠償をさせる会の設立と多くの仲間とともに奔走しました。

 粘り強く交渉するものの加害責任を果たそうとしない東京電力。2013年3月、国と東京電力に慰謝料と原状回復を求めて裁判を起こしました。一律25万円の慰謝料、妊婦には追加25万円、継続的慰謝料として月々、おとな3万円、子ども8万円、空間放射能が毎時0・04マイクロシーベルト以下になり、福島第1原発が廃炉になるまで支払うことを求めて822人の市民とともに提訴しました。現在は第2次を含めて1395人が原告です。

 原発事故は、「現役のときより忙しい日々」を菅家さんに求めてきました。「こんなに忙しくなるとは予想もつかなかった。あっという間に3年半は過ぎた」といいます。

 被災者の生活相談から始まった支援活動。夏すぎのころから「相談の内容が変わってきた」といいます。当初は、「仕事がない、家族がバラバラになってしまった」といった相談でしたが、それからは「自分の生き方が問われる相談が多くなった」そうです。故郷を奪われ足場を失った避難者、原発労働者の待遇と安全確保にかかわる相談-。「一瞬一瞬、緊張感ある対応が必要だった」と振り返ります。

■自問しながら

 「教師のときに心がけたことは子どもの目線で話を聞く」ことでした。「その体験は被災者支援にもいきていて、被災者の目線に立った支援」に心がけています。「いわき市にともに生活する意識づくりが大切だ」とも感じています。

 ボランティアで仮設住宅に支援物資を届けたときでした。被災者から提起されたことがありました。「無料で配ることはやめてほしい。施しは受けたくない」といわれました。「避難者をどう見るのかが問われました。『してあげている』というおごりはないだろうか?」。自問しながら活動しています。

 大飯原発の再稼働を認めない福井地裁判決、自殺と原発事故との因果関係を認めた福島地裁判決と、原発被害者を励ます司法判断が相次ぎました。

 「裁判所にもきちっと分かってくれる人もいると激励されました。いわき市民訴訟をきちっとやり遂げることと、原発労働者を励まし、改善を図るたたかいは、いわき市民が中心のとりくみとなります。引き続き力を入れていきます」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2014年9月16日より転載)

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