「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告団副代表を務める紺野重秋(こんの・しげあき)さん(76)は、全町避難となった福島県浪江町から福島市内の借り上げ住宅に移り住み3年以上が過ぎました。
「3・11」後、福島市内の、あづま総合体育館で始まった避難生活は、猪苗代湖の民宿へと転々としました。
体育館の劣悪な環境で体調を崩しました。体育館の汚れた空気とストレスでせきが止まらず、涙が流れ、呼吸困難となり病院に行く事態に。
心臓の悪い妻の体も心配でした。アパートをさがして2LDKの借り上げ住宅に避難したものの「部屋は狭く、物が置けない。追いだきのできない風呂。不自由です」。
■真っ先に原告に
浪江町の紺野さんの住まいは居住制限地域。今は、行き来はできるものの宿泊はできません。「たびたび浪江の自宅に行って劣化しないように補修している」といいます。
この3年余は「無我夢中で避難者の救済と支援、賠償のために必死で国と東電とたたかってきた」と振り返ります。「自然豊かだった元の浪江町に戻せ」と、真っ先に原告になりました。
浪江町で1町5反の田んぼを耕し、米作りをしていました。農業だけでは暮らしは成り立ちません。自動車修理工場も営みました。
避難してから福島市内に工場を再建すると、ちりぢりになった浪江町の顧客が訪ねてきて車の修理を依頼してくれました。
紺野さんは、福島県の沿岸部に東京電力の原発建設が始まった当初から建設反対運動に加わりました。町の多くは原発推進派。当時は町を歩くと「この″アカ″やろう」と罵声を浴びせられました。
「あのときに裁判所が反対住民の訴えに耳を傾けていればこんなことにはならなかった」と、取り返しのつかない災禍をもたらした福島原発事故に悔しがります。
■逆戻りさせない
子どもの頃は養蚕が主でした。戦争中には東邦レイヨンの工場などに米軍機の機銃掃射が行われました。
叔父一家は満蒙開拓団として満州(中国東北部)に行きました。ソ連の参戦で叔父はシベリアに抑留されました。「戦争はあってはならない」といいます。
直接戦争体験のある最後の世代の紺野さん。「子や孫の代に戦争をするような国を引き継がせたくはない」と、集団的自衛権の行使容認に反対します。
「戦争をする国に逆戻りさせてはならない」と「憲法9条あってこそ70年近く戦争は起こらなかった」といいます。「今たたかわずにいつたたかうのか。歴史的には最先端のたたかいです。戦争は自然豊かな国土を壊します。原発事故も温暖な気候の浪江から住民を追い出し、海、山、川に放射能をばらまいた。原発即時ゼロ、集団的自衛権行使容認反対の二つを軸にたたかいます」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年8月18日より転載)