福島県桑折(こおり)町に住む桑折町郷土史研究会会長の鈴木文夫さん(67)は、町史編さんなどに携わってきました。桑折町文化財保護審議会委員も務めています。
郷土史の研究に携わるようになったのは、営業の仕事をしていたときです。「待ち時間を活用して公民館などに備え付けられている郷土史の文献などを読んだ」ことからでした。
「3・11」後の11月に大病を経験したことから、これからの人生で二つのことをやり抜こうと思っています。
一つは、「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟に勝訴することです。原告団福島支部の世話人をしています。
もう一つは、桑折町の災害史をまとめること。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が郷土にもたらした人災の爪痕について記録することです。
福島市北部の摺上川(すりかみがわ)から取水し桑折町、国見町を経て伊達市にいたる28キロの農業用水路である西根堰(にしねぜき)に関する文献リストを作成したいといいます。
余震が続く中で
鈴木さんは、大震災の余震が続く中で治療を体験しました。無菌状況にした囲いの中のベッド上にいました。自由に歩くこともできない状況に置かれた中で襲う余震。病院の看護師の夜勤体制は2人だけ。「地震で避難しなければならない事態になったならば弱者は見捨てられてしまう」と、恐怖を感じました。病弱の妻と義母の安否が心配でした。
介護施設に入っていた義母の容体が悪くなり義母も入院。「1週間で亡くなりました。『負担をかけたくない』と身を引き先に逝った」と思っています。
「このときに、原発はゼロにする。再稼働などとんでもない」と心に誓い、国と東電の責任を問う生業訴訟の原告になりました。
街の風景を一変
桑折町は、江戸時代から始まった柿の生産地です。町に降りそそいだ放射能は、街の風景を一変させました。桑折町も、あんぽ柿の出荷を自粛することにしました。
あんぽ柿として使用できなくなった柿が畑に山積みにされて放置されました。手間をかけられない農家では、柿が木から自然落下するまで放置しました。もがれることなく技にぶら下がった茶褐色の柿。枝に付いたまま冬を越したのです。
町の風物詩でもあった渋柿をつるす「柿ばせ」の黄金色の風景も消えました。「こんな冷酷な景色は見たことがない」
あんぽ柿を作る伝統的な技術が消滅するのではないかと心配でした。「東電は弁償すればそれでおしまいにしたい。そんな問題では済まされない」
妻の庸子さん(63)の先祖は、800年前までさかのぼれる農家でした。不毛の地だったことから水田、畑のほかにも、日常生活の維持のために山からの恵みが大切にされました。栄養補給のための山野草、小動物、飲料水源として山を荒らさずに維持してきました。それが放射能で汚されました。
「一族の世代を超えた努力と土地への愛着が染み込んでいます。先祖と子孫につながる代表の一人として国と東電の責任を問う」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年5月26日より転載)