歌手生活32年間
ふるさとの懐かしい校歌が4月28日、会場いっぱいに響き合いました。東京・新宿区の歌声喫茶「ともしび」で開かれた「福島県浪江町の小学校校歌を歌う浪江・福島交流会」。同町立浪江小学校の新入生が今年度ゼロとなったことを知った浪江小出身の吉田正勝さん(58)がインターネットのフェイスブックで「浪江小のために何かやりたいね」と3月、つぶやいたことがきっかけです。
「ともしび」歌手として32年間歌ってきた吉田さん。2011年3月の東京電力福島第1原発事故による避難生活のなかで、ふるさと浪江町の2人のかけがえのない命を失いました。
同町で1人暮らしをしていた叔母(80)は認知症が進み、避難者であふれる体育館に入れず、車の中で生活、転々と避難し最後は東京で、同年11月に亡くなりました。
「優しかった叔母。死に目にも会えなかった」と語ります。
浪江駅前に住んでいた父(86)と弟夫婦は県内を転々と避難し同年3月17日に東京都立川市の吉田さん宅に身を寄せました。心臓のペースメーカーを着けていたものの軽トラックで500メートル離れた畑に通うほど元気だった父は歩けなくなるほど衰弱していました。今年1月2日、ふたたび浪江を見ることなく亡くなりました。
小学校にプールがなかった時代、キラキラとアユが泳ぐ豊かな川で吉田さんは友人たちと一日中泳ぎ、ガラス箱を持って捕ったアユを焼いて食べた思い出のふるさと。いまは放射線が強く、人の姿のない田んぼには津波で流された船が何艘(そう)も残ったままの、変わり果てた光景となりました。
「東電も国も絶対安全だと言っていたはず、原発事故は人災、許せない。ましてやSPEEDIの放射線放出情報すら教えなかった」。心労も重なり「耳鳴りがして仕事も手につかず、本当に歌うことができなかった」。
吉田さんは11年7月、被災地を訪れ、たくましく支援活動を続ける浪江商工会の人たちの姿を見て、立ち直るきっかけをつかみました。「自分たちも避難しながら同じ避難者に支援物資を届け、生活相談に乗り、苦情を言われ怒られながらも我慢強く活動する姿を見て、自分もこのまま落ち込んではいられない、できるところから始めたい」
唱歌「ふるさと」や「北国の春」が歌えるようになったのは同年8月に岩手県野田村を訪れてからです。「『仮設住宅だと1日、誰ともしゃべんねえこともあんだ』と話す高齢の女性たちが『今日はこうやって一緒に歌えて良かった。来てくれてありがとう』って。こんなボクでも役に立つんだ」
心をつなげたい
吉田さんの歌声は被災者の心を励まし続けています。昨年(2012年)2月28日に福島県郡山市で開いたコンサートでは小学3年生の女児が「私たちにすてきな歌声をとどけてくれた人は、私の心のささえになりました。これからは下を向かず、前向きに生きていこうと思いました。はなればなれになった友だちのことも忘れないように」と感想を書いてくれました。
「6月には岩手県で三陸鉄道の復興列車を走らせたい。交流会も2度3度と続けたい」と吉田さんは語ります。「福島原発の被災者たちは全国にばらばらとなって避難を余儀なくされています。自分ができることで、心がつながり、元気になってくれたらいい」
(小林信治)