東京電力福島第1原発事故の放射能被害とたたかうふくしま復興共同センターと福島県農民連が4月22日、東京でおこなった「怒りの総行動」。福島県からバス7台、約300人が28万3236人の「原発ゼロ100万人署名」をもって参加しました。その思いは―。 (秋山豊、内田達朗)
午前10時40分、東京電力本店前。プラカードやのぼり、横断幕を持った被災者らが太鼓やタンバリンを鳴らし、「原発なくせ!」「再稼働反対!」「福島かえせ!」とコールをはじめました。
故郷の浪江町を追われて避難する女性(72)が宣伝カーにのぼりました。原発事故から3年、親しい人の命が奪われた無念を語ります。
声聞こえるか
荒れはてる店を目の当たりにし、生きる希望を失い自殺した中小業者。避難先を転々とするうちに病気を悪化させて亡くなった男性…。「孤独死や自殺。亡くなった被災者と遺族の声が聞こえますか」と東電に訴えると、被災者から「聞いでっか、東電! 謝ってつぐなえ!」の声があがりました。
「怒」と書いたはちまきをしめた福島県農民連会長の亀田俊英さん(66)。4代以上続く農家です。「脈々と築いてきた歴史のなかで農業をつくってきた。原発と土は絶対に共存できないんだ」と憤ります。
原発事故により、コメや野菜をつくっていた南相馬市小高区を追われました。今は、母親が避難する同市原町区の仮設住宅、妻が避難する郡山市の民間借り上げ住宅(みなし仮設住宅)を往復する日々です。
賠償を求めて東電とたたかうなかで大動脈瘤(りゅう)を患い、この2月に手術しました。84歳の母親に「東電なんかに負けるな」と声をかけられ、手術室に入りました。「原発事故は、福島県民から暮らしも生業(なりわい)も奪った。国と東電に責任を果たさせる命がけのたたかいだ」と語ります。
家に帰れない
自動車工場を営んでいた浪江町から福島市内の仮設住宅に避難している男性(76)は、賠償を求める裁判で“年間20ミリシーベルト以下の放射線被ばくは人権侵害ではない”といった東電に怒ります。
自動車整備工場に勤めていた男性は52歳で独立。今は、息子が、福島市内に移した工場で何とか仕事をつないでいるといいます。しかし、浪江町を思うと怒りがこみあげます。「はらわたが煮えくりかえる思いだ。国も東電も故郷を追われる痛みがわかっていない。家があっても帰れねえ。こんなに悲しいことはねえべ。原発をなくすまで、死ぬまでたたかう覚悟だ」
「東電は農作物被害を補償せよ!」と書いたプラカードを持ってデモ行進に出発したのは二本松市の農家、男性(66)です。直売所に菊、小松菜、カブなどを出荷しています。しかし、少しでも暮らしの足しにしようと2010年に栽培を始めた原木シイタケは出荷停止となったままです。
「野菜の出荷は冬だけ。追い打ちをかけるように今年の春の豪雪でビニールハウスが倒壊した。菊を出荷する7月まで収入はない」
男性は、原発事故直後に、選花場にするために建てた小屋の周辺の放射線量が高くなっていることも心配しています。浪江町の石で基礎のコンクリートがつくられたからだといいます。建てかえを求めていますが、国は東電まかせで賠償はすすみません。「原発を再稼働しようなんて、怒り心頭だ。廃炉しかない! 20年後、30年後、次の世代に原発という負の遺産を残せるわけがない」
福島県北部、宮城県との県境の町・新地町(しんちまち)から父親とともに参加した男性(27)は、事故発生後、避難所や県内の親戚の家などを転々としました。今は、新地町でコメを中心にネギ、ジャガイモを作っています。
「復興に向けて新しい生活を始めようにも、再び事故が起きれば努力は水の泡です。政府や東電は、被害に苦しむ福島県民の声に耳を傾け、復興と事故収束に全力をあげてほしい」