声を上げる大切さ 実感
民青福島県委員長の久保田亮さん(32)は「主権者として成長した10年間だった」と振り返ります。
2011年3月11日、東京電力福島第1原発事故があるまで、「多くの青年たちと同じで、政治に無関心だった」といいます。
風評を恐れて
「3・11」の日は福島市内の自宅にいました。強い揺れに恐怖を感じます。水も電気も止まる中、ラジオで原発の停止を知り、「これは大変なことになるかもしれない」。日本共産党の党員である親からの影響で、放射能の怖さをわずかながらも知っていたからです。
翌日、原発が爆発。目に見えない放射能。急いで窓を閉めました。
冷却機能を失った原発の事態は刻々と悪化。「福島には住めなくなるかも」と恐ろしくなりました。
3月19日、母親から「大阪の叔母のところに行きなさい」といわれ、両親を残し、兄弟だけで大阪に避難します。
「被災地と違い、大阪はまったく普段と変わらない日常と生活がありました。そのギャップに驚きました。風評を恐れて近隣の人たちに福島から避難してきたことが分からないよう気をくばりました」
福島に帰れなくなったときは、大阪で仕事を探して、と思ったりも。その後、爆発が拡大する兆候もなく、落ち着いてきたので避難から2週間ほどで福島に帰ってきました。
原発事故後、政権が代わり、原発再稼働路線が加速され、モヤモヤとした日々を過ごします。
「あれだけの事故を起こしたのに再稼働を進めるなんてなんかおかしい。政治に対して違和感のようなものを感じ始めていました」
政治を変える
原発事故から2年たった13年。親の紹介で全国からの救援活動を担うボランティアセンターに参加します。仮設住宅などに支援物資を届ける活動に取り組みました。
原発ゼロを求める全国集会にも福島から参加。そこで民青に加盟し、その後、日本共産党にも入党。運動にどんどんかかわるようになりました。
15年には、戦争法案の強行採決に反対した青年たちと「DAPPE」を立ち上げます。
「DAPPE」の活動では政治を変えるために野党共闘の実現に力を尽くしてきました。16年には原発事故から5年後の青年の気持ちを聞くアンケートにも取り組み、「原発をなくしたほうがいい」「できればなくしたほうがいい」という声をつかむことができました。
活動していて、不安に押しつぶされそうなこともありました。それでも、声を上げ続けることの大切さを感じています。「昨年は、汚染水の海洋放出問題で、6月以降デモをやったりして、メディアにも取り上げられました。世論の高まりで、夏に決定する予定が11月以降にずれこみ、いまだに決まっていない。運動の力です」
政府は事故の反省なしに「重要な供給電源」として、いまだに原発を再稼働しようとしています。
「今年は、10年の節目ですから原発ゼロ基本法案を国会で通すこと、そのためにも迎える総選挙では、野党連合政権をつくり、エネルギー政策の転換を実現させたい」
DAPPE(ダッペ) 正式名称は、「平和と平等を守る民主主義アクション」(Democracy Action to Protect Peace and Equality)です。
(「しんぶん赤旗」2021年1月5日より転載)