県議の自分 想像もせず
東日本大震災・東京電力福島第1原発事故から間もなく10年。当時、政治・社会に無関心で原発の知識も少なかった福島の10代、20代の多くの若者たちが学び、成長し、原発ゼロと被災者支援に立ち上がりました。3人の姿を追いました。(菅野尚夫)
「今の自分を10年前にはとても想像できませんでした」
そう語るのは、福島県伊達市の大橋沙織さん(29)です。大橋さんは2019年秋の福島県議選で、日本共産党から立候補、初当選しました。福島県議会では、女性最年少議員です。
「県民の生の声を届けることを大切にがんばりたい。相手によりそい、思いを大事にする政治を実現したい」
政治とは遠く
10年前は、福島市内の短大で1年生だった大橋さん。手話や軽音楽、書道のサークルなどに参加。「けっこう遊んでいました」
地震が起きたとき、書道サークルの活動中でした。体験したことのない大きな揺れがきて、いったん、みんなで外に避難。雪が降ってきて、また建物の中に。不安が募る中、夜になって、母と姉が車で迎えにきて、伊達市の自宅に帰ることができました。
「原発のことも政治のことも全く考えずに生きていました。学生だったということもあってニュースなど熱心には見てなかったと思います。原発事故があって、何かおかしいなと思いました」
原発事故の影響で、授業は5月の連休まで休みになりました。ときどき短大の仲間や先生と、原発事故被災者の避難所を訪ね、一緒に体操するボランティアをしました。
「避難された方たちが、エコノミークラス症候群にならないようにと、体操をしたんです。でも、おとなの被災者の方に、どんな言葉をかければいいか分からず、小さな女の子と遊ぶことしかできませんでした」
やがて、学校も再開。原発事故の被災者のことが気がかりでしたが、日常の生活にもどっていきました。
声あげる魅力
12年の秋、勤めたばかりの会社をやめ、仕事さがしに福島市のハローワークに行った時のことです。人が集まっていて、みると日本民主青年同盟(民青)の人たちがアンケート活動をしていました。
「断る勇気もなくて、アンケートに答えました。そこで、ヨーロッパの働き方とか聞いて、自分の会社もそうだったら、もう少し長く働けたかなと思いました。おかしい社会を変えること、署名を集め、自治体に届け、声をあげていくことに魅力を感じて民青に加盟しました」
「困っている人たちのため、一生懸命がんばっている」と、共産党の姿にも触れ、入党しました。
「人生の一大転機でした。そこでの出会いがなければ、今の私はありません」と大橋さん。
福島市内での原発ゼロを求める金曜行動や集会には、いつも大橋さんの姿がありました。
原発事故で、避難してきた被災者が住む仮設住宅を青年ボランティアセンターの一員として訪問。そこで聞いた切実な声、要望を国や自治体に届け、防寒設備の増強なども実現させてきました。
周囲から、「ぼんちゃん」と親しまれ、民青福島県委員長も務めました。
10年前は、人前で話すことも苦手だったという大橋さん。今は県議として日々、走り回り、被害者への完全賠償と生業(なりわい)の再建、原発再稼働反対、原発ゼロなどを訴えています。
「汚染水の海洋放出をさせないこと、廃炉に全力を注ぐこと、避難者を中心に完全賠償を勝ち取ること。原発事故は終わっていません。一人ひとりを大事にする政治、社会に変えるため全力で取り組みます」
(「しんぶん赤旗」2021年1月4日より転載)