「原発ゼロ」はっきりと
「怒濤(どとう)の10年でした」と、福島県須賀川市の堂脇明奈さん(37)は振り返ります。
現在、日本共産党の須賀川市議会議員をしています。議員になったのは2019年です。
「日々、やりがいを感じています。10年前には共産党の議員になるなんて考えてもいませんでした」
堂脇さんは、東京電力福島第1原発事故前は社会人でした。職場結婚し、正社員を辞めました。その後、正社員にはなれませんでした。いまだに社会には、子育てをしながら働く女性に対する偏見があります。
待遇差に疑問
「女性は一度、非正規になると、なかなか正社員になれません」。自分の体験から、「働かされ方」に疑問を感じていました。
「正社員、アルバイト、パートを経験して、その間に待遇の格差があった」。「なんでこんな差別的な目に遭うのか」と考えるようになりました。
夫が不当解雇に遭い、撤回闘争をしたことも。「社会がおかしい」と考えるきっかけでした。それでも「普通に暮らしていた」という堂脇さん。
「政治に関心もなく、原発がどこに、何基あるかもまったく知りませんでした。ましてや、福島県内に10基もあるなんて知りませんでした」
原発事故当時は、地元須賀川市のカフェでパートをしていました。
原発事故が起きて、店主が「お客さまに安全・安心な食べ物を提供したい」と、お店を県外に移転。堂脇さんは失業します。
原発事故の爆発シーンがテレビに映し出され「福島には住めなくなるのではないか」と不安に襲われます。
仕事を探さないといけないのに、無気力でやる気が出ない日々が続きました。「何で私がこんな思いをしなくてはならないのだろう」
当時、須賀川市などでは、野菜などの出荷が停止に。有機栽培で安心・安全なキャベツなどの野菜を生産してきた農家の人が放射能汚染を苦にして自死しました。原発事故が福島県の沿岸部の浜通りだけでなく、中通りにも大きな被害をもたらしていることに堂脇さんは憤りを感じ始めます。
一変した人生
しかし、東電も国もどこも原発事故の責任をとりません。そんな時、東京で官邸前抗議行動が始まります。「福島でも声を上げなければいけない」と、強く感じます。
12年から、夫や賛同団体と月1回のペースで須賀川市で抗議行動を始めました。月1回、のべ80回以上やってきました。
夫とともに「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告にも加わりました。裁判は、福島地裁、仙台高裁で勝訴し、最高裁に審理の場が移っています。
須賀川市周辺には、沿岸部から避難してきた人のための仮設住宅がありました。行動する中で避難者と対話することがありました。
周りの人に誘われ、さまざまな学習会に参加するようになりました。
暮らしに関わることがすべて政治につながっていることがわかり、「声を上げなければ何も変わらない」と思うようになります。「原発ゼロをはっきりと主張する日本共産党と自分の考えが一緒だった」と17年に共産党に入り、「しんぶん赤旗」も読むようになりました。19年8月には須賀川市議会選挙で初当選。原発事故がなかったら「人並みに普通に暮らしていた」と思っていた人生が一変。「あの原子炉建屋爆発という一瞬でがらりと変えられました」(おわり)
(「しんぶん赤旗」2021年1月6日より転載)