福島県いわき市の久世原団地に住む佐川みきさん(82)と夫は、「とうとう起きたのか!」と絶望感に襲われました。「3・11」で東京電力福島第1原発が爆発したからです。「外に出るな」「戸を閉めろ」と宣伝カーが走り回りました。
娘一家が住んでいた市内の中央台団地は、市外の出身者が多いため、「3・11」のとき、人の姿が消えました。福島県内外に避難したのです。いわき市からは18万人が避難しました。
「娘と3人の孫たちのことが心配で、パニックになり、12、13、14日と必死で逃げ場所を探しました」
いわき市の自宅から、茨城県守谷市、埼玉県春日部市などの親戚宅をめざそうと思いましたが、「6人もお世話になって負担をかけるわけにはいかない」と思い、引き返しました。
■線量不明のなか
15日、福島市のみきさんの実家に避難することにしました。そのときは、福島市内の線量は不明でした。いったんは避難したものの、孫の高校入学式が4月6日にあり、学校も何の変更もなく、今まで通り始まるということで、いわき市に戻りました。
いわき市は「低線量」地区といわれ、「孫たちの健康に影響はしないのか?」と心配でした。
「いわき市内の放射線量を長年測っている人がいます。『低線量』と言ってもホットスポットといわれる放射線量の高いところがいくつもありました。福島県沿岸部に原発建設が持ち上がった時から反対活動をしてきた人たちがいます。主に高校の先生方たちでした」
■多くの人が移住
原発事故からまもなくしていわき市内には、周辺地域から強制的に避難させられた多くの人が移住してきました。さらに、事故収束のために働く労働者が住むようになりました。
みきさんは、福島市に生まれました。父が早く亡くなったので、兄の支援で福島大学学芸部を卒業し、中学の英語の教師になりました。
教員時代は、激動の時代。勤評闘争、60年安保闘争、ベトナム侵略戦争反対闘争、松川裁判闘争と戦後の平和と民主主義の運動が高まった時代であり、組合活動に熱心に参加してきました。
みきさんも原告のいわき市民訴訟は提訴から7年7カ月。10月21日に結審しました。来年3月26日判決を迎えます。
今も原発事故は収束していません。汚染水対策は失敗続き。トリチウム汚染水の処理問題は迷走したままです。海産物汚染は未解決です。再度の爆発の心配もあります。
燃料棒など使用済み核廃棄物の危険性、さらなる汚染、中間貯蔵施設、仮置き場の近接と不安は増えるばかりです。
国と東電は、原発に固執しています。原発再稼働阻止、輸出反対、全基廃炉のたたかいは続きます。
「勝たなければならない」としみじみと感じています。
(「しんぶん赤旗」2020年11月6日より転載)