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福島に生きる 浪江町津島訴訟原告 今野義人さん(76) 望郷の念 仲間と共有

 福島県浪江町津島赤宇木(あこうぎ)から同県白河市に避難している今野義人さん(76)は「ふるさとを返せ!津島原発訴訟」の原告です。

 赤宇木で農業を営んできました。

 「江戸時代後半から、先祖代々赤宇木で暮らしてきた」という今野さん。若いころは青年会のリーダーでした。若者たちの交流会、フォークダンスと楽しい青春でした。その後もイモ煮会など仲間との交流は続きました。県の重要無形文化財の田植踊りの獅子舞いの獅子頭役も務めました。10代から60代の村人が二十数人も集まり練習しました。

 約3ヘクタールの水田と、約2・5ヘクタールの畑で野菜をつくってきました。60歳ごろから現在も区長をしています。

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に遭遇したのは赤宇木の自宅をリフォームし完成間際の時でした。原発事故で新しい家は、一度も使われることなく放置されたまま10年たちました。「怒りと無念で胸がいっぱいになります」

■記録誌とりくむ

 5年ほど前から赤宇木の記録誌作りに取り組みました。

 『100年後の子孫たちへ 赤宇木の記録史』と題した500ページに及ぶ大作です。村の始まりから現代まで、地域の歴史、産業、信仰、習俗について全部1人で調べました。

 福島県立図書館に通いました。相馬藩政史、地元の人が書き残した文献など集めました。

 平安時代には赤宇木に人が住んでいたこと、数年に一度は冷害に遭い、地域で団結して乗り切ったこと、戦後に入植した人たちは、言葉も習慣も違うなかでも地域になじめるように努力していたことが分かりました。

 大震災当時85世帯あった住民の避難先を訪ねて聞き取り調査を繰り返しました。東京や千葉県など全国に散りぢりとなった仲間を訪問し、話を聞きました。「いつになったら帰れるのか」。訪問先で問われる共通の質問です。答えのない問いに望郷の念を共有しました。

■帰還信じて測定

 今年度中の完成を目指しています。「記録誌作りで赤宇木への愛着がますます強くなりました。津島の住民にたいする国の説明会のとき官僚は『100年は帰れない』と平然と言いました。住民の気持ちを残さないと完全に棄民されてしまう」

 毎月許可をとって浪江町津島に入って放射線量の測定をしてきました。95カ所を測っています。回数も100回を超えました。

 「放射能の被ばくについて何も知識がありませんでした。今も測定してあ然とする線量を示すこともあります。それでも津島に戻りたい気持ちは強いです。測りつづけます」(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2020年7月27日より転載)