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福島に生きる 営業再開を目指して・・ラーメン店店主 高木光雄さん(70)

「サケの遡上(そじょう)する小高で暮らしたい」。東京電力福島第1原発事故から2年9カ月、福島県南相馬市で避難生活を送る高木光雄さん(70)は、望郷の思いでいっぱいです。

「周りの人たちが良くならないと復興はすすまない」と語る高木さん
「周りの人たちが良くならないと復興はすすまない」と語る高木さん

親しまれた店

小高川には水しぶきをあげながら遡上するサケが見られました。終(つい)のすみかと思っていた同市小高区に戻って生活することはできません。避難指示解除準備区域で、日中の立ち入りは認められているものの宿泊はできないからです。

高木さんは「ぴかぴかラーメン」として親しまれてきたラーメン店の店主。「お客さんに喜んで食べてもらう」ことが生きがいでした。

おいしいラーメンを作る秘訣(ひけつ)は「まごころだ」といいます。深夜にスープを仕込み、朝6時には客に出せるように準備します。ネギは硬くならないように地産地酒で南相馬市の農家から仕入れていました。コクがあってさっぱり系の「東京豚骨ラーメン」を作って10年以上になります。

会社勤めや飲食店を営んできた経験のある高木さんがラーメン店をやることになったのは、友人から「経営を引き継いでほしい」と頼まれたことからです。順調に売り上げを伸ばして、3年で借金を返済しました。

「これからだ」。そんな矢先に東日本大震災に遭遇。海から3キロにあった自宅と店は海水につかりました。

3月11日は一晩、車中で過ごしました。翌日、中学校体育館へ避難。13日夕方、「原発が爆発した」と聞き、車に飛び乗り、新潟方面へ。その後は会津若松市、宮城県、埼玉県と転々とした後、南相馬市原町の借り上げ住宅に移りました。

震災ボランティアの支援で店はきれいになったものの営業再開は住民が戻らないと無理です。原状回復と損害賠償を求める福島原発訴訟に加わりました。

「津波被害だけだったらラーメン店の再開は可能でした。しかし、原発事故による放射能汚染は営業圏全体の地域再生が進まなければ店の再開は不可能なんです。東京に住む息子や孫たちは福島に遊びに来ません」と、悲しみを語ります。

多くを奪った

賠償に対する東電の姿勢は「横暴だ」と感じていた高木さん。「加害者なのに賠償の線引きを勝手にしています。被害者の請求の7、8割程度しか賠償しません」と批判。第3回口頭弁論で原告側の意見陳述をしました。

「南相馬産の野菜や魚は食べられなくなりました。タケノコや山菜を近所の人からもらったり、採りにいったりできなくなりました。国と東電は奪ったものの大きさを自覚し、きっちりと責任をとってもらいたい」

第3回口頭弁論で潮見直之裁判長は、震災前に地震や津波が原発に与え
る影響を試算した資料全てを開示するように命じました。

「秘密保護法が成立していたなら機密扱いで法廷にも出されなかったと思います。都合の悪いものは覆い隠す同法は絶対反対です」
(菅野尚夫)

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