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福島に生きる 福島原発避難者訴訟原告 大塚智さん(80)・・自宅取り壊し 足震えた

 福島原発避難者訴訟(早川篤雄原告団長)原告の大塚智さん(80)は、福島県浪江町から郡山市に避難しています。

無我夢中の8年

 「無我夢中の8年間だった」と振り返ります。浪江町に住み、大熊町で不動産会社とパチンコ店を経営してきました。今年3月中ごろと4月の2度、故郷の浪江を訪れました。「こんなになるのかとビックリ」し、「ショックでした」といいます。

 浪江町の一部は避難指示解除になりました。「浪江町に四十数年住んできたものの、戻ることは断念しました」。人通りもなく、工事用の車ばかりでした。買い物は、南相馬市まで行かなければなりません。

 家族6人で住んでいた自宅。今年3月末、母屋と長男の別棟住宅を同時に解体、自慢の庭も池も埋めました。放射線量は1時間当たり0・6マイクロシーベルトくらいありました。

 「いよいよ自宅の取り壊しの日時を告げられたときは、覚悟はしていたものの、死刑囚が死刑台に乗せられたかのような心境で、足が震えた。住まいは歴史です。それを失う。これ以上悲しいことはない」と話します。

 「アユ釣り、海釣り、山菜取りができるようになったら帰る」つもりでいます。「自然とつながることができてこそ、私たちの浪江町だ」と思っています。

 放射線量が高く、大熊町で経営していたパチンコ店は諦めて、敷地は除染廃棄物の中間貯蔵施設のために国に提供することにしました。

 妻の実家は、浪江町大堀の相馬焼の窯元です。原発事故で相馬焼の再開はできなくなりました。ことし4月9日現在で1時間当たり3・02マイクロシーベルトもあり、大堀に戻ることを諦めました。

 各地を転々とした後に、2015年の春。当時の避難先だった新潟県柏崎市に家を購入しました。しかしその後、長男が郡山市で仕事をすることになり、妻が病弱なこともあって一緒に移住することにしました。

 18年4月、不動産業を再開するために、郡山市に事務所を作りました。しかし、人のつながりが薄く、事業は軌道にはのっていません。「あー、これが人の分断なんだなあ」とつくづく思いました。

 長男は、「親には申し訳ないが、浪江町で子どもを育てていく自信が持てない。他の場所で新しい生活をする」といっています。

手を取り合って

 東京電力の原発事故は全ての財産と、夢、希望を奪いました。大塚さんは「この悔しさや悲しみをそのまま背負っては終わりにしたくありません。家族、友人と手を取り合って、残りの人生、老骨にむち打って頑張るつもりです」と語りました。

 (菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2019年6月19日より転載)