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“福島に生きる”青年期の経験 今に生かし・・酪農家 佐々木健三さん/復興願い出荷・・福島

「全世界でここ福島の実践は大きな役割を果たすものです。世界の最前線に立って原発ゼロをめざす。住みやすい郷土をつくります」

福島市で酪農を営む佐々木健三さん(72)は、東京電力福島第1原発事故直後から、「極限状況に置かれている深刻な状況を打開しよう」と活動してきました。

乳牛の世話をする佐々木健三さん=福島市
乳牛の世話をする佐々木健三さん=福島市

1日400キロ廃棄

事故直後は、牛乳を1日400キロも廃棄処分しました。廃棄作業は50日間続きました。牧草の確保のために農民運動北海道連合会の支援を得ました。

大震災・原発事故の被災者救援のため、いち早く全国に呼びかけ、野菜やコメなどの食料品の支援に全力を注いだのが佐々木さんらの所属する農民運動全国連合会(農民連)でした。佐々木さんは、2001年から07年まで農民連の会長を務めました。

佐々木さんは、1959年に福島県の農業高校を卒業しました。18歳でした。「近くの酪農家から4ヵ月の子牛を1頭購入したのが酪農人生の始まり」でした。原発事故はそうして始めた苦労を一瞬で台無しにしたのです。

賠償を求めて何度も上京。「平成の農民一揆」と言われる東電との直接交渉を重ねてきました。

酪農の仲間から希望を見失い自殺する人が出ました。そんななかで、「生業(なりわい)を返せ地域を返せ!」福島原発訴訟の原告として自然豊かな郷土を取り戻すために国と東京電力に原状回復を完全賠償を求めてたたかっています。

佐々木さんの住む福島市西部地域は吾妻連峰のふもとに位置しています。周辺には、浪江町や双葉町からの避難者が暮らす仮設住宅があります。佐々木さんは、妻の智子さんと仮設住宅を訪問して農作物などの支援物資を届けています。

表皮に「絆」の文字が入れられたリンゴ(写真=福島市、12月14日撮影)
表皮に「絆」の文字が入れられたリンゴ(写真=福島市、12月14日撮影)

60~70代挑む

「活動の源泉は青年期にありました」と語る佐々木さん。「私たちは戦争が終わったあと新しい青年運動を模索していました」

「このまま貧しい農民で終わっていいのか」「幸せって何だ」「生きるって何だ」・・と当時いっしょになってもがいてきた60代から70代の人たちが、国と東電にたたかいを挑んでいる、といいます。
佐々木さんたちの青春時代には、うたごえ運動、青年団の民主化運動、都市の労働者と農村青年の交流の場となった『五色のつどい』のとりくみ、松川事件、安保闘争、原水爆をなくす運動。大きなうねりの中で社会問題と農業について学習し、社会運動にかかわってきた時代がありました。佐々木さんは「原点に返ろう。あのときの体験は今も生きていて国と東電とのたたかいに立ち向かう原動力となっている」といいます。

このたたかいの経験と教訓は佐々木さんが中心となって編集した『青年団から農民運動へ 回想と展望』(発刊する会)としてこのほど出版されました。

即時原発ゼロを願う佐々木さん。地域に太陽光発電所を建設する構想を持っています。

「原状回復、完全賠償を実現させるたたかいと自然エネルギーヘ転換させるたたかいとの両輪でとりくみます」
(菅野尚夫)

復興願い出荷・・福島

復興を願い、表皮に「絆」の文字が入れられたリンゴ(写真=福島市、12月14日撮影)。収穫の3ヵ月前に黒いシールを貼って日光を遮ることで、文字が浮かび上がります。

生産者の阿部尚一(あべ・ひさいち)さんは「震災後に試行錯誤し、3年目で満足する物ができた。味も満点」と話しました。検査で放射性物質は検出されず、1500個が出荷されます。イベントなどで無料配布されるため販売はしないといいます。

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