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福島に生きる 生業訴訟原告 深谷敬子さん(74)・・原発の怖さ、声大にして

 「8年間は今まで経験したことのない孤独感を味わいました。心も体もずたずたです」

 福島県富岡町から同県郡山市に避難している深谷敬子さん(74)は今の心境をそう話します。

 事故を起こした東京電力福島第1原発から約7キロの地点にあるJR常磐線夜ノ森駅周辺(福島県富岡町)には、いまだ許可なく立ち入れない帰還困難区域が広がります。

 1968年に結婚した深谷さんの夫の出身地は、樹齢100年のソメイヨシノが並び、1500本が咲き誇る桜の名所の夜ノ森公園近くです。

 美容師の深谷さんは、ここに翌年、自宅を新築、敷地内に美容室を造り「80歳まで働こう」と考えていました。

 「安心できる家があり、仕事があり、多くの人とのつながりもあり、毎日が満ち足りていました」が、夢を打ち砕いたのが福島原発事故でした。

■孤独感に襲われ

 「3・11」の時、最初に避難した大熊中学校や常葉体育館は人であふれていました。冷え込みは、リウマチの持病を持つ深谷さんにとってきつく「このままでは死んでしまう」と思いました。朝食は白いおにぎり1個、お昼は食パン1枚でした。

 その後、2016年、郡山市の災害公営住宅に落ち着くまでに10回も引っ越しました。

 孤独感に襲われたときに読んだ詩があります。

 あの日の私を返してください

 毎日を笑って暮らしていた

 あの頃の私を返してください

(中略)

 原発が憎い

 全てを奪った原発が憎い

 あの日の私を返してください

 苦しみを訴えるところがなかった深谷さんが原告になったきっかけは、友人から「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟のことを教えてもらったことです。

 「富岡町など相双地区は貧しく出稼ぎが多かった地域でした。『原発反対』を言う人は白い目で見られた」と言います。

 深谷さんも「原発は安全で町を豊かにしてくれる」と思っていました。「東京電力に勤めている」と言うと「当時はうらやましく思われた」そうです。深谷さんは言います。「生活が豊かになっても、放射能で身の危険を感じるようでは何もならない」

■安心できる生活

 災害公営住宅に入って3年がすぎました。「喜んで入ったはずの復興住宅も真綿で首を絞められるようです。国も東電もあの手この手で被害者を追い詰めているような気がしてなりません。私たち避難者には安住の地はないのかもしれません」

 今年、長男と3年ぶりに富岡町のわが家を見に行ってきました。

 田んぼは黒いフレコンバッグが山のように積まれ、解体している家が目立ち様変わりしていました。

 自宅には、草刈り機で草を刈りながらでないと入って行けません。イノシシ3頭が家の前を歩いていました。「こんな状況の家には帰りたくない」

 深谷さんは言います。

 「原発の怖さを声を大にして言いたいです。避難することによって人生がくるってしまい、いまだに立ち直れない人がどれほどいるのか計り知れません。私たちが安心して生活できるようになるまで、国と東電は責任をもって完全賠償をしてほしい」(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2019年3月7日より転載)