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福島に生きる 生業訴訟原告団長の母 中島カネ子さん(86)・・わが子信じ原発ゼロ

 福島県相馬市の中島カネ子さん(86)は、「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告です。訴訟の原告団長・中島孝さんの母です。

 孝さんが小学校3年生のときに「母の日」に書いた手紙があります。「お母さん、毎日お仕事ご苦労様です。この頃、ずっとお父さん、お母さんの顔を見ていないけどどうしたのですか? 僕は妹の面倒を見ますからお母さんはお父さんと一緒に一生懸命頑張ってください」

 カネ子さんは1932年5月、7人きょうだいの4番目に生まれました。9歳の時にアジア・太平洋戦争が始まりました。

■苦い思い出が…

 激しくなる戦争。毎日の暮らしも大変になり、絵の具も買えず二つ上の兄と共用で使いました。「図画の時間に兄の所に借りに行くと男の子にひどく冷やかされた」と苦い思い出がありました。

 神棚に供える榊(さかき)を訪問販売して絵の具を買いました。行商の原点になりました。20歳で結婚。農家でしたが、農業以外の収入はないかと夫と魚の行商を始めました。

 松川浦でとれたアサリ、ノリ、ワカメなどを車に積み、福島市、飯坂温泉街、二本松市、郡山市などを回りました。

 「思うようには売れず何度もやめようと思った」そうです。

 2時間ほど天日干ししたヤナギカレイ、アサリを1キロ袋に入れ70円で売りました。

 一軒一軒ご用聞きをして回る、アサリや魚のレシピを作成して売りました。車にスピーカーを付けて宣伝しながら売ると「この前の魚屋さんね。とてもおいしかった」と寄ってくるようになりました。「相馬の民謡でもマイクでながし分かるようにしたらどうか」と、客が助言してくれました。

 雨が降ると休みとなる行商をして23年。1983年に機会があって店を持つことができました。

■半生つづった本

 『この相馬の地に生きて今』という中島カネ子さんの半生をつづった本があります。

 孝さんの大学受験のエピソードが載っています。

 早稲田大学など複数の私立大学に合格。合格発表と入学金納付日が異なるので、本命ではない大学にも入学金を納付しました。

 親心は他にも記載されています。

 「学生運動が激しい時代で毎日のようにテレビ、新聞で報道があり心配もしましたが、その方には深入りしないようで無事に卒業することが出来た次第です」とあります。

 「僕はノンポリだったから」と孝さんは笑います。

 息子とともに国と東電を相手に原状回復と損害賠償を求めた生業訴訟の原告になりました。

 「放射能のことは困ったことです」と言います。

 「大きなものにはまかれろではいけない。国と東電を相手に声を一つにしていく。人間生活、金ではない。どんなことをしても勝ちたい、勝たせたい。息子は正しいと自負している。原発はゼロにしたい」

 (菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2019年1月11日より転載)