「福島の被災農家を支えよう」「福島を第二の水俣にするな」「相馬に復興の砦(とりで)を築こう」と、集まった人たちが立ち上げた福島県相馬市にあるNPO法人野馬土(のまど)の福島第1原発20キロ圏内ツアー。「被災地フクシマの旅実行委員会」が支えています。
村上精一さん(70)も実行委員の一人です。
■貸し切りバスで
野馬土のツアーは、ツアー希望者の自家用車や貸し切りバスに、ガイドが乗り込んで南相馬市小高区や浪江町を案内するのが基本。村上さんは、ドライバーを務めています。
相馬市役所に勤め、農業管理センターで育苗センター、畜産関係の業務に携わった村上さん。公民館の仕事では、市民の要望に基づいて公民館を自由に使ってもらったことが利用者から喜ばれました。
19歳のころにダンスを始めましたが2年ほどでやめました。45歳になりまた始めました。「気が弱く、奥さんに頭が上がらない。ダンスは男性がリードするもので少しは頭が上がるようになるのかなとやりだしました」と笑います。
2011年3月11日、相馬市の松川浦の相馬ポートセンターでダンスをしていたときに東日本大震災にあいました。
「これはダメだ」と、海から離れた相馬市の自宅に避難し、津波から逃れることができました。ポートセンターは天井まで浸水しました。「判断がちょっと遅れていたならば津波にのみ込まれていた」と胸をなで下ろしていました。
相馬市は停電と断水が続きました。炊き出しの手伝いをしました。「もっとなんかしたい」と。「被災地フクシマの旅実行委員会」に加わったのです。
同実行委員会は今年3月7日、“奇跡の避難劇”と呼ばれた浪江町立請戸(うけど)小学校の避難を検証しました。子どもたちが津波から逃れるために浪江町から双葉町に位置する大平山(おおひらやま)に避難した経路を実際に歩きました。
海から約500メートルに位置する請戸小。「3・11」のとき校舎には給食後に下校した1年生を除き、2年生から6年生までの児童77人が残っていました。教職員はすぐに「逃げろ」と児童を促し、避難場所に指定されている約2キロ先の大平山に向かって走りました。間一髪で大平山の麓にたどり着き全員無事でした。一時は津波で海の底となった排水ポンプが壊されたままになっていました。農道は、湿地帯となり、誰も歩かなくなりアシが生い茂り歩きにくくなっていました。
「子どもたちはよく頑張ったと実感しました。先生たちと子どもたちの的確な判断と行動に絶大な称賛をしたい」と村上さんはいいます。
■東電は謝罪して
大平山には今年3月、霊園ができました。浪江町が建てた慰霊碑には亡くなった人の名が刻んでありますが、「3月12日には東京電力福島第1原子力発電所の事故により、国から避難指示が発令されたため、住民は避難を余儀なくされ、捜索や救命を断念せざるをえなかった」と無念の思いが書かれています。
地域を返せ、生業(なりわい)を返せ!福島原発訴訟原告の村上さん。10月1日、仙台高裁で始まる控訴審の傍聴に行こうと考えています。
「東電の幹部が私たちの前できちんと謝ってほしい。若い社員だけに言いわけさせて頭を下げさせる。おかしい」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年9月23日より転載)