絵本を自費出版した藤倉紀美子さん(68)
福島県二本松市に住む藤倉紀美子さん(68)は、福島市で35年間医療関係の労働組合の専従として働きました。定年を機に自給自足の生活を求めて生まれ育った二本松市に移住。農地を確保した矢先に、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故に遭遇しました。
原発から50キロ以上も離れた二本松市でも放射能で汚染され、収穫した野菜やコメなどが一切食べられなくなりました。みんなが絶望と不安のなかにいました。
春が来ても誰も種まく人がいなかった中で、ひたすら、野菜と土の力を信じて農地を耕し、種をまく人がいました。40年以上も有機農業を営んできた人です。
■家族ら避難して
原発事故が起きると、第1原発から10キロ離れた富岡町に住んでいた娘たちの家族ら20人ほどが着の身着のまま藤倉さん宅に避難してきました。80歳以上のお年寄り2人と、赤ちゃんを含む7人の子どもがいました。その後、娘たちの家族はそのまま1年半ほど藤倉さん宅に同居しました。
藤倉さんは、孫が通う小学校で絵本四読み聞かせボランティアを始めました。もう6年にもなります。
子どもたちは、年がたつにつれて震災や原発事故の記憶は薄れていきました。「一番恐ろしいことは忘れられること」でした。「この原発事故を何かに残したい。語り伝えたい」。その思いが募りました。
自費出版でお金もかかりますが、一念発起して絵本『ふくしまで、オレは農業をやる』を作ることにしました。
テーマは迷うことなく原発事故にもめげずに頑張ってきた有機農家の人の姿を描くことにしました。絵は、農民画家といわれている二本松市に住む菅野伝授さんに頼んだところ、快く引き受けてくれました。
■足を踏み出して
絵本は、二本松市で有機農業を営んできた人の姿と重ねて、次のように書いています。
「オレの村にも放射能が降った。オレの作った野菜が食べられない。口惜しくって、口惜しくって泣いた」
原発事故は、有機農家にとって衝撃的でした。でも、「やってみよう。やってみなければわからない」とくわを持つ農民。全国からの支援に励まされ、放射能測定器を手にした農民。食べられるようになったキュウリやトマト。収穫に涙する農民。絵本は最後にこう結んでいます。
「今でも原発事故は終わっていない。汚染された古里に帰ることのできない人が居る。避難先に移住した人がいる。古里だから田畑を守る、と帰る人も居る。悩みながら、迷いながら足を踏み出している」
藤倉さんは今、耕作放棄地に綿の種をまき、収穫したその綿花で、糸を紡ぎ、マフラーを織り、古い着物をほどき、収穫した綿を入れて、はんてんなどを作っています。
昔日本では、綿を自給していました。今は多くが輸入です。綿作りの体験学習などもしており、綿に触れたことのない子どもたちは、綿の手触りに「気持ちいい」と笑顔がはじけます。(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2018年4月6日より転載)