原発賠償関西訴訟原告団代表・・森松明希子さん(40)
「普通の暮らしを奪われた、普通の人が、普通の暮らしを取り戻すために立ち上がるしかない」・・。こう語るのは東京電力福島第1原発事故で、福島県郡山市から大阪市に母子避難した森松明希子さん(40)です。原発賠償関西訴訟原告団代表を務めます。長男の明暁(めいよう)くん=5歳=、長女の明愛(めいあ)ちゃん=3歳=と一緒にこれまでの軌跡と思いを聞きました。
(中東久直)
2011年3月11日、10階建ての賃貸マンションで、夫、子ども2人の4人家族で生活していました。震度6の地震で、家具などが倒れ、足の踏み場がない状態。各戸に備え付けの大きな給水タンクが壊れ、全部屋が水に浸かりました。
その日から1カ月間、夫の勤務先の病院で避難所暮らしをしました。ゼロ歳の娘には、タオルを布オムツ代わりにし、スーパーのレジ袋をさいてオムツカバーにしました。
放射性物質の広がりは恐怖
原発から60キロほど離れているので大丈夫なんだ、避難所でなんとかしのいで待っていよう。でも、放射性物質の広がりは恐怖でした。そんななかでも、その年の4月、早く「普通の生活」を取り戻そうと、別の賃貸マンションを借りました。
息子は当初入園予定だった福島県内の幼稚園に入園しました。入園式では園長先生から「たくさん写真を撮っておいてください。せっかく買いそろえた制服ですが、制服は今日1日だけに」といわれました。半ズボンやスカートの制服ではなく、放射能対策のために長袖、長ズボンにしてほしいということです。
子ども用のマスクの束が配られるなど、生活全般に強い違和感がありました。毎週末に人口が流出していくところを目の当たりにしました。焦りと不安、恐怖が入りまじったような感覚でした。
その年の5月のゴールデンウイーク、夫のすすめで、私の出身の関西に子どもと3人でいきました。これが、家族がバラバラに二重生活になるという母子避難のきっかけです。ほんとうに正しい決断なのか?と迷いながらも、子どもの命と健康が守られる、ごく普通の生活ができるだろうという思いでした。
子どもたちの楽しみは電話
郡山市で暮らす夫はなかなか子どもたちに会えません。子どもたちが毎晩楽しみにしているのが、お父さんからの電話です。大阪にきてから多くの人たちが支援してくれ、また、同じ避難者の人たちとの交流も心の支えになりました。
去年(2013年)9月、国と東電に対する「原発賠償関西訴訟」を提訴しました。損害の完全賠償と被害者全員に対して個人の尊厳を回復するための国の支援措置を求める裁判です。原発事故の被災者は避難するも、とどまるも、帰還するも、厳しい状況のなかでの苦渋の選択だとわかってもらいたい。声をあげなければなにもなかったことにされてしまう、そんな思いです。私のできることを発信し続け、前へすすんでいきたい。