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『資本論』刊行150年に寄せて 不破哲三⑭・・革命家マルクスの決断(下)/国際運動に本気で取り組む(終)

インタナショナルの第1回大会に参加した代議員(ジュネーブ、1866年)

 フォークト事件の4年後、マルクスが、ふたたび決断を迫られる時が来ました。

 マルクスは、1863年7月に『61〜63年草稿』を書き終わり、その著作の表題を『経済学批判』から『資本論』に改めて、8月から第一部の執筆(のちに『初稿』と呼ばれることになった)を開始し、64年夏にはそれを書き終えて、すぐ第三部の最初の部分の執筆に進みました。『資本論』の執筆が調子に乗ってきた時期だったと思います。

 第三部執筆の最中に予期しない事態がおこりました。

インタナショナルの創立。マルクスの参加

 9月、イギリスとフランスの労働者たちの発意で、ロンドンで国際的労働者集会が開かれ、マルクスも招かれて出席したのですが、そこで、労働者階級の国際組織を作るところまで話がすすんでしまったのでした。「国際労働者協会」(インタナショナル)の創立でした(64年9月28日)。

 新しい組織は、創立大会から1カ月余りたった11月1日、創立宣言と暫定規約を決定しました。そこに至る経過の中で、この組織を指導する力をもった幹部はマルクス以外にいないことが、おのずから立証されました。

 選ばれた暫定委員会は、ご当地のイギリスの労働組合の幹部をはじめ、たいへん雑多な傾向の人びとからなっていました。マルクス自身、エンゲルスへの報告の手紙で、「再び目覚めた運動が以前の大胆なことば使いを受け入れるようになるまでに時間がかかるのだ」と語りはしましたが(11月4日の手紙)、48年革命以来の同志で、アメリカに亡命していたヴァイデマイアーには、いっそう強い言葉で、この組織の活動に本気で取り組む意思を、明らかにしました。

 「僕は長年にわたって、いっさいの『組織』等々への参加をすべて系統的に断ってきたのだが、今回は引き受けた。というのは、こんどの一件では有意義な活動をすることができるからだ」(11月29日の手紙)

運動指導と『資本論』の両立に苦労

インタナショナル総評議会への出欠表(1871年1月〜3月)。上から5人目がエンゲルス、12人目がマルクス

 しかし、この決断をしたものの、インタナショナルの活動と『資本論』の執筆を同時並行で進めることは、容易なことではありませんでした。

 毎週火曜日の委員会の定例会議だけでなく、イギリスの選挙権運動、ポーランドの集会などからフランスの支部の内紛など、あらゆる問題が、結局はマルクスの所へ持ちこまれるのです。エンゲルスへの手紙も、インタナショナルの活動やぼやきが最大の主題となってきます。ある日のマルクスの嘆きの声をきいてください。

 「昨晩はやっと朝の四時にベッドに入った。あの本の仕事のほかに、国際協会がまったく途方もなく多大の時間を取り上げるのだ。というのは僕は事実上これの頭(あたま)だからだ」(65年3月13日の手紙)

 しかし、マルクスはともかくこの時期に、第二部の最初の草稿を書きあげ、その中で、例の新しい恐慌論を発見したのです。そして、その年の6月には、その発見をふまえた最新の到達点で、労働者運動の当面の任務と社会変革の闘争の展望を語ったのでした。(『賃金、価格および利潤』)

運動への参加が『資本論』完成の力に

 マルクスは、翌66年、新しい構想で『資本論』の第一部の完成稿の執筆にかかります。新構想の大きな特徴の1つは、旧構想ではそれぞれ独立の部となるはずだった「資本」と「賃労働」を統合し、資本主義的生産を両面から総合的に分析することにありました。そして、社会変革の展望では、労働者階級の「訓練・結合・組織」の過程が変革の主体的条件として大きく位置づけられることになりました。65〜67年の新たな理論的発展のこの時期に、マルクス指導的中心にいて、運動分野の理論と実践に取り組んだことは、『資本論』完成稿の成立をささえる大きな力になったのではないでしょうか。

 『資本論』第1巻は、67年9月、インタナショナルの2回目の大会が開かれた直後に刊行されました。インタナショナルの活動参加に踏み切ったマルクスの決断は、『資本論』の完成という任務にとっても、意義ある決断だったのでした。

 マルクスには、まだ『資本論』の第二部、第三部を仕上げる課題が残っていました。この部分も、草稿は一応書きあげていました。しかし、マルクスにとっては、まだそれは最初の未完成な草稿にすぎず、刊行のためには、「原稿をすっかり書き直すことが必要」だったのです。(71年6月の手紙から)

 マルクスは、残る生涯をかけてその仕事に取り組みました。″原稿の書き直し″は、第二部についてはかなりのところまで進行しましたが、第三部については、ロシアの土地問題や急速な発展を遂げつつあったアメリカ資本主義の問題など、膨大な研究をおこなったものの、ついに新たな原稿の執筆には取りかかれないまま、年来の病気との苦闘のうちに、1883年3月14日、その64年余の生涯を閉じました。

 この時期にも、マルクスは、インタナショナルが72年9月にヨーロッパでの活動を終えるまでは、その「事実上の頭」としての任務に全力を注ぎ、それ以後も、ドイツ、フランス、アメリカなど各国の社会主義運動の発展に、エンゲルスとともに大きな指導的役割をはたし続け、最後まで、理論活動と実践の統一という立場を貫きました。

 現在、私たちが読んでいる『資本論』第二部は、マルクスが1868〜82年に執筆した″書き直し″の諸草稿から、第三部は、1864〜65年に書いた最初の草稿から、エンゲルスが編集・刊行したものです。

 

 『資本論』刊行の150年後にマルクスを学ぶものにとっても、理論活動と運動上の任務の統一という立場を節々に示してきた革命家マルクスの姿勢は、たいへん教訓的だと思います。そのことを最後に一言してこの連載を閉じることにします。14日間、たいへんご苦労さまでした。

(おわり)


〈注釈〉第1回で、『資本論』刊行と同時代の日本の諸事件を挙げたとき、その月を旧暦で示しました。日本史を扱う場合、1872年の太陽暦採用の決定以前については旧暦表記をする場合が多いからです。太陽暦に換算すると、多くの事項が1月あとになります。

(「鳥羽・伏見の戦い」だけは変わらず)

 

〈訂正(再録)〉第5回「搾取と支配が社会全域に」(5日付4面)の中で、世界の富豪8人と下層36億人との資産の格差が「4400倍」とあるのは「4億5000万倍」の誤りでした。(電子版は訂正済み)

(「しんぶん赤旗」2017年8月15日より転載)