『資本論』は、マルクスが書斎のなかで書きあげた著作ではありません。生活のためほとんど毎日のようにいろいろなテーマでの新聞論説の執筆にかかり、たえず起きてくる運動上の課題もこなしながら、昼間、余裕があれば大英博物館で膨大な書物のノートをとり、『資本論』関係の執筆はもっぱら自宅での夜業でやる、これが、『資本論』第一部刊行にいたるマルクスの日常でした。
そのマルクスが、『資本論』の仕事と運動上の任務と、どちらを選ぶか、その選択をせまられた時期が2回ありました。『資本論』の大業にとりくむ革命家マルクスの姿勢をみるためにも、その経過を紹介したいと思います。
フオークトの反共攻撃に直面して(1860年)
マルクスが、『資本論』に先行する著作『経済学批判』を刊行したのが1859年6月、その続巻にあたる『61〜63年草稿』を書きはじめたのが61年8月、そのあいだに2年を超える中断の時期がありました。これは、『資本論』の準備過程では、ほかに例のないことでした。
実は、このとき、マルクスは悪質な反共攻撃に直面し、それとたたかうために、『資本論』の準備作業を中断する決断をしたのでした。
攻撃を仕掛けたのは、ドイツの自然科学者フォークトで、19世紀の俗流唯物論者の一人として哲学史にも名を残していますが、当時は国際政治の政論家として知られていました。そのフォークトが、1860年1月、48年のドイツ革命の時代のマルクスを中心とした共産主義者同盟の活動を取り上げて、″マルクスは、『刷毛(はけ)一家』、『硫黄団』と名乗る陰謀団体の首領で、仲間を警察に売り渡す役割までした″といった誹膀・中傷の文章を発表したのです。
マルクスは、この事実を知った時、この攻撃を打ち破る決意をしました。エンゲルスは、″『資本論』の完成こそは君の任務だ、激動の時代が始まった時、それが書き上がっていなかったら君はどうするつもりだ″と忠告する(60年1月31日の手紙)のですが、マルクスは聞きません。
“党全体に対する大打撃には、一大打撃をもって答えるべきだ(2月3日の手紙)”とし、『資本論』の準備を中断して、反共攻撃粉砕の闘争に全力をそそぎました。
ドイツ革命時代の党−−−共産主義者同盟はすでに解党していましたが、マルクスにとっては、いま形はなくとも、革命の事業を推進する「党」は常に存在しており、この事業に参加している者にとって、「党」の名誉と正義を守ることは責任をもって果たすべき義務だったのです。
マルクスの反撃、中傷者を完全に粉砕
マルクスの反撃は徹底していました。首領の役目をおしつけられた「刷毛一家」も「硫黄団」もマルクスとはまったく無関係の団体でしたから、当時のそれらの団体の加盟者やドイツ革命の関係者などに手紙を書いて、事実に関する
証言を要請しました。マルクス自身、こういう手紙を五十数通も書いたと述べています。これにこたえて、マルクスの手元には、フォークトの根も葉もない中傷を知った関係者から、宣誓書付きの証言が次々によせられました。
こうした過去の歴史事実の徹底した調査をもとに、マルクスは、60年12月、反撃の書『フォークト君』を公刊したのです。
この書では、誰も否定しえない事実にもとづいて、フォークトの誹膀は完膚なきまでに粉砕されました。
しかし、マルクスの反撃はそこにはとどまりませんでした。マルクスは、この書の後半を、フォークトがヨーロッパの政治問題について発表していた政治論説の分析に当てました。そして、フォークトのすべての論説が、フランスのボナパルト皇帝の外交政策への支持・応援という性格をもっていること、フォークトは政治的にはボナパルトの恥ずべき手先であることを、彼の論説そのものによって証明してみせました。
マルクスは、この仕事を終えて、『資本論』の仕事に復帰しました。そして、61年8月には、必要な諸準備を終えて、『61〜63年草稿』の執筆を開始したのでした。
後日談。ボナパルトから四万フランの資金
これには、大事な後日談があります。
1870年、対独戦の敗戦でボナパルト政権が崩壊した後、ボナパルト宮廷から発見された文書のなかに、ボナパルトが1859年8月、″フォークトに4万フランを渡した″という記録が発見されたのです。マルクスは、政論の分析から彼がボナパルトの手先であることを証明しましたが、まさに、彼は金で買収されたボナパルトの手先そのものであり、マルクスヘの反共攻撃も、その立場からの行動だったのでした。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2017年8月13日より転載)