日本共産党嶺南地区委員会 > しんぶん赤旗 > 『資本論』刊行150年に寄せて 不破哲三⑩・・マルクスの未来社会論(2)/輝かしい未来像−−−人類社会の「本史」

『資本論』刊行150年に寄せて 不破哲三⑩・・マルクスの未来社会論(2)/輝かしい未来像−−−人類社会の「本史」

「必然性の国」と「自由の国」

『資本論』第三部のマルクスの草稿

 未来社会論の本論は、『資本論』第三部の最後の篇で解明されています(新日本新書版⑬1434〜1435ページ)。たいへん、圧縮した表現になっていますが、その要旨は次の通りです。

 マルクスはまず、未来社会に生きる人間の生活時間を、二つの部分にわけます。

 一つは、自分とその家族の生活を含め、社会を維持・発展させるために必要な物質的生産に従事する時間です。この社会では、一部の階級ではなく、社会の全員が生産労働を分担するわけですから、それだけでも、現在の資本主義社会での労働時間よりも、はるかに短い時間になるでしょう。しかも、資本主義経済は、大量生産・大量消費・大量廃棄を看板にしたたいへんな浪費経済で、利潤獲得の舞台になればどんな無駄・無益な分野にも競争で資本を投下します。

 「無政府的な競争制度は、社会的な生産手段と労働力の際限のない浪費を生み出し、それとともに、こんにちでは不可欠であるがそれ自体としては不必要な無数の機能を生み出す」(同③906ページ)。

 こうした浪費経済と手を切った未来社会では、物質的生産にあてるべき時間は、さらに短縮されるでしょう。マルクスは、人間の生活時間のうち、この時間部分を「必然性の国」、それ以外の、各人が自由にできる時間部分を「自由の国」と名付けました。

物質的生産の時間がなぜ「必然性の国」なのか

 労働にあてる時間を、なぜ「必然性の国」と呼ぶのか。

 マルクスは、インタナショナルの「創立宣言」(1864年)を書いたとき、末来社会では、労働の性格はなくなるとして、そこでの労働を次のように特徴づけました。

 「自発的な手、いそいそとした精神、喜びにみちた心で勤労にしたがう結合的労働」

 しかし、他人のための苦役ではなく、楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動となります。マルクスは、「必然性の国」という言葉で、この時間部分が、「すべての労働能力のある成員」にとって義務的な性格をもつことを示したのでした。

「自由の国」とは。「人間発達の場」

 それ以外の時間は、まったくの自由時間です。そして、たとえば、日本の資本主義の現在の生産力発展の段階で考えても、自由時間は、生活時間のきわめて大きな部分を占めることになるでしょう。

 ″余暇″という言葉がありますが、これは、労働にあてる時間が中心だから″余暇″なのです。労働の時間ではなく、自由時間が人間生活の主要部分になる、これが未来社会です。「時間は人間の発達の場」という言葉が、本当に生きてくる社会です。

 そこでは、多くの可能性をもちながら、機会や条件に恵まれず、それを生かせないまま生涯を終えるといったことは、もはやなくなるでしょう。すべての人間が、″余暇″も大いに楽しみながら、自分のもつ能力を発展させることができる社会が、人類史上初めて現実のものとなるのです。こういう意味で、マルクスは、この時間を「自由の国」と呼びました。

人類社会の未来像

 マルクスは、その発展法則を語った次の文章で、未来社会論を結びました。

 「この国[必然性の国]の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の国が−−−といっても、それはただ、自己の基礎としての……必然性の国の上にのみ開花しうるのであるが−−−始まる。労働日の短縮が根本条件である」(同⑬1435ページ)

 この社会では、すべての人間の力の発達が保障され、その成果に応じて、労働日(必然性の国)のさらなる短縮が可能になり、それがまた「自由の国」のさらなる発展の条件となる。これが、未来社会の発展の法則となるのです。

 『資本論』のこの部分を書く6年前、マルクスは人間社会の過去・現在・未来を概括して、資本主義社会の終焉(しゅうえん)とともに「人類社会の前史は、終わりを告げる」と述べたことがありました。(『経済学批判』「序言」1859年)

 「前史」の終わりとは、「本史」の始まりのこと。人間の発達が社会発展の原動力となるとは、まさに人類社会の「本史」にふさわしい未来像ではないでしょうか。(つづく)

(「しんぶん赤旗」2017年8月10日より転載)