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『資本論』刊行150年に寄せて 不破哲三⑥・・資本主義は人類史の過渡的一段階(1)/物質的生産力の高度な発展

マルクスも見学したロンドン万国産業博覧会(1851年)の紡績機械展示場=玉川寛治著『「資本論」と産業革命の時代』(新日本出版社)から

 マルクスの資本主義に対する見方は、批判一本やりではありませんでした。実際には、人間社会の歴史に占める資本主義時代の積極的な役割をマルクスほど深く理解した人物はいなかったと言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

未来社会の現実的土台をつくりだす

 資本主義の諸悪の根源ともいうべき利潤第一主義ですが、その歴史的意義について述べたマルクスのつぎの文章を読んでみてください。

 「価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」(新日本新書版④1015〜1016ページ)

 生産力を高度に発展させることで、未来社会の物質的基礎をつくり出す−−−利潤第一主義は、人類を強制して、結果的にはこういう役割を果たさせているのだ、という指摘です。第1回で資本主義の「肯定的評価」というマルクスの研究態度を紹介しましたが、これは、その態度で資本主義社会を意義づけた典型的な文章の一つです。

諸個人の「自由な時間」の保障

 マルクスが、資本主義が未来社会にひきつぐ最大の遺産として、社会的生産諸力の発展を強調するのは、物質的に豊かな生活を保障するという意味だけではありません。

 いまの文章でも、未来社会を、「各個人の完全で自由な発展」を「基本原理」とする社会と特徴づけていたでしょう。マルクスは、『資本論』執筆中におこなったインタナショナルでの講演(1865年)の中で、「時間は人間の発達の場である。思うままに処分できる自由な時間をもたない、睡眠や食事などによるたんなる生理的な中断をのぞけば、その全生涯を資本家のために労働によって奪われる人間は、牛馬にも劣るものである」(『賃金、価格および利潤』)と述べました。

 社会のすべての人間に、「発達の場」である「自由な時間」を保障する、ここに資本主義社会を共同社会に変革する事業の最大の人類史的意義があるのです。

 巨大な生産力の発展がなければ、搾取社会が共同社会に変わっても、個々人はわずかの「自由な時間」しか与えられず、社会変革が「各個人の完全な自由な発展」と結びつくことなど起こりえないでしょう。マルクスが展望した未来社会論の眼目はまさにここにあったのでした。

搾取論の総括部分で未来社会論を説く

 こういう角度からの未来社会論は、まとまった形では、第三部第7篇で展開されますが、注意して読むと、未来社会の問題は『資本論』の各所に顔を出しています。すでに第一部の商品論でも、未来社会は「自由な人々の連合体」として特徴づけられていましたが、剰余価値の搾取を「絶対的」および「相対的」の二つの角度から分析した後、その総括的なまとめの部分で、マルクスは、この問題で未来の共同社会を資本主義社会と対比して、こう論じています。

 共同社会では、社会のすべての労働能力のある成員のあいだでの労働の均等な配分がすすめばすすむほど、社会の生活時間のうちで「物質的生産のために必要な部分がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分がそれだけ大きくなる」。

 資本主義社会では、「一階級(支配階級のこと=不破)の自由な時間は、大衆のすべての生活時間を労働時間へ転化することによって生み出される」。(同③906ページ)

 「自由な時間」の万人への保障の問題は、『資本論』の最初の巻から、来たるべき社会変革の眼目に位置づけられているのです。

 この問題は、連載の後の部分で、より立ち入って考えることにしますが、ここでは、搾取論の総括のところで、マルクスが未来社会の問題をこういう内容で論じていた、そのことの重みを、ぜひ読みとっていただきたい、と思います。

(つづく)

(「しんぶん赤旗」2017年8月6日より転載)