恐慌をめぐる理論問題とは?
資本主義社会の最大の経済的災害は、恐慌です。それは、1825年のイギリスの恐慌から始まって、200年近くたったいまでも、周期的に社会をゆるがし続けています。
なぜ、恐慌が起こり、いつまでもくりかえされるのか。多くの経済学者がこの問題に取り組みましたが、誰もこの難問を解決することはできませんでした。そして、恐慌の″秘密″をはじめて解いたのが、マルクスでした。
しかし、そのマルクスにしても、明確な解答に到達するまでの理論的な苦闘はなみたいていのものではありませんでした。
恐慌が起きる根源が、利潤第一主義を最高の行動原理とする資本主義の体制そのものにある−−−マルクスは、このことについては、1857〜58年、『資本論』にいたる草稿を書きはじめた段階で、ほぼ明確な解答をえていました。資本は、できるだけ大きな利潤を獲得しようと、競争で生産拡大の道を進みますが、主要な消費者である労働者はできるだけ安い賃金で働かせたい。この矛盾が恐慌の根底にある、という解答です。
マルクスを悩ました問題は、その先にありました。この矛盾が、どうして周期的に恐慌が爆発するという形態をとるか、という問題です。
生産と消費の矛盾と言っても、市場経済は、そのバランスが崩れたらすぐそれを直す調節作用を持っているはずです。恐慌の場合には、その調節作用がなぜ働かないのか。
また、恐慌の周期性も問題でした。ある段階までは、生産と消費は並行して順調に発展するのに、それが進行すると、突然、事態が悪化して、恐慌の破局に急転換する。資本主義経済は、どうしてこんな循環運動をくりかえすのか。
マルクスが、科学的な解答を求めて苦闘を続けたのは、この問題でした。
苦闘8年目の大発見
1857年10月、草稿を書きはじめてからの最初の7年半は、まったく間違った道−−−利潤率低下の法則の発動によって恐慌の運動法則を説明しようという、誤った道に立っての苦闘でした。
転機が訪れたのは、1865年に入って早々のことでした。はじめて第二部の執筆にとりかかり、″資本の循環″の章を書いている最中、長年の難問への予想外の解決策が頭にひらめいたのです。
おそらく電撃的なひらめきだったのでしょう。マルクスはただちに、新しい恐慌論の骨子を十数行の短い文章で、草稿ノートに書きこみました。そのあと、″循環″論を書き続けながら、発見した新たな理論立てについて考えをめぐらしたのだと思います。6ページほど先のノートに、新たに到達した恐慌論の内容を、今度はほぼ1ページにわたって書きこみました。
新展開の眼目は、商人資本の役割に注目したところにありました。それが、再生産過程を、現実の需要から離れた「架空の軌道」に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深刻化させるという、資本主義独自の運動形態を生み出す。その新理論の骨組みが、苦闘8年目の草稿ノートに記録されたのでした。おそらく1865年1月か2月のことだったと思いますが、『資本論』の転換点ともいえる劇的な瞬間でした。
経済学の新しい地平が開かれた
この発見は、恐慌問題にとどまらず、資本主義の現段階の見方から、社会変革の論理のとらえ方、さらには、『資本論』そのものの構想の立て方にまで影響を及ぼす、まさにマルクスの経済学の新しい地平を開く意義をもちました。
マルクスは、恐慌論のこうした到達点をのちに、『資本論』第二部第3篇の後半部分でまとまった形で展開するという構想を立てましたが、そこまで執筆する時間をもたないまま、1883年3月、その生命を閉じました。
では、現行の『資本論』では、その到達点を読むことはできないのか。いや、心配はありません。マルクスは、新発見の数カ月後に書いた第三部後半の草稿のなかに、新しい恐慌論の内容を、かなりまとまった形で書き残してくれました。第4篇第18章、新日本新書版⑨514〜516ページの文章です。
特別に恐慌論らしい表題がついているわけではないので、読み過ごされがちのところですが、ここでは、商人資本の役割に焦点を当てながら、新しい理論展開の筋道が詳しく説明されています。
『資本論』全巻のなかで、マルクスの恐慌論の真髄にせまる唯一の貴重な文章ですから、ぜひ、目を通していただきたいと思います。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2017年8月4日より転載)