労・資の抗争。二つの歴史的教訓
マルクスは、『資本論』第一部の「労働日」の章を書くために、イギリス資本主義の発足以来の、労働時間をめぐる労働者と資本家の階級的抗争の歴史を徹底的に研究しました。そして、そこから、21世紀の今日なお有効な、二つの歴史的教訓をひきだしました。
第一の教訓。「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、なんの顧慮も払わない」
マルクスは、この教訓に次の解説をつけました。それは、善意・悪意の問題ではない、競争で資本家たちにおしつけられる「資本主義的生産の内在的な諸法則」なのだ、と。(新日本新書版②464ページ)
第二の教訓。資本主義の法則に対抗する「社会による強制」とは何でしょうか。それは、国家の法律で資本の無法を抑えることです。
イギリスの労働者階級は、選挙権をもたなかった時代に、マルクスが事実上の「半世紀にわたる内乱」と呼んだ闘争によって、1850年、世界で初めての「10時間労働法」(工場法)をかちとりました。マルクスは『資本論』のなかで、全世界の労働者にイギリスに続けとよびかけました。
「労働者は結集して、階級として一つの国法を」、自分たちとその同族を「死と奴隷状態におとしいれることを阻止する強力な社会的バリケードを奪取しなければならない」。(同525ページ)
どの国の労働者も、こういう「社会的バリケード」をかちとってはじめて、自分とその一族、わが階級の存続をまもれるのです。
「社会的ルール」の世界的な前進
1850年の10時間労働法に始まる「社会的バリケード」は、以来160年余の歴史のなかで、労働者と国民の生活を守る「社会的ルール」として、世界的には大きな発展を遂げ、その内容を拡大・充実させてきました。そこには、いくつかの画期的な時期があります。
(1)第1次大戦後、ロシア革命の影響のもとで、労働条件の向上を任務とする国際組織ILO(国際労働機関)が発足し(1919年)、ドイツのワイマール憲法(同年制定)に、国民の生活権が、憲法上の基本的権利として初めて明記されました。
(2)1930年代の人民戦線の時代に、フランスの労働者が、世界最初の有給休暇の権利をはじめ、労働条件を保障する画期的な協定(マティニヨン協定)をかちとり、世界的にも大きな影響をおよぼしました。
(3)第2次大戦後に成立した国際連合は、国際人権規約の制定(1966年)をはじめ、この分野でも多くの前進をかちとってきました。
日本の立ち遅れの克服を
イギリスでの最初の歴史的勝利を含め、「社会的ルール」の前進の画期となったこの四つの時期に、日本はどんな状態だったでしょうか。
−−−イギリスでの工場法獲得の年(1850年)は、幕末のペリー米艦隊来航の3年前でした。
−−−ロシア革命後、労働法と国民の生活権確立が国際的な大問題となった時期は、日本全土がシベリア出兵(1918〜22年)と米騒動(1918年)で内外大揺れの時期でした。先進的な労働者の手で最初のメーデーがおこなわれる(1920年)などはありましたが、「社会的バリケード」をかちとる闘争が問題になる条件はありませんでした。
−−−1930年代の人民戦線の時代は、すでに「満州」(中国東北部)での侵略戦争が始まり、それが対中国全面戦争に拡大する前夜、治安維持法が荒れ狂い、労働総同盟が戦争協力の立場から「同盟罷業(ストライキ)絶滅」を宣言する(1937年)ような時代でした。
−−−では戦後はどうか。民主化の波のなかで、8時間労働を定めた労働基準法(1947年)は制定されたものの、それは、「8時間労働」は看板だけで、残業賃金さえ払えば、実質労働時間はいくら長くてもかまわないという中身のものでした。
私は、大学卒業後、1950年代半ばから鉄鋼産業の労働組合で働きましたが、その時、一流の大企業の高熱重筋労働の作業現場で、“12時間2交代制”が正規の労働体制となっていることを知って、びっくりしたことを、いまもよく覚えています。
このように、世界が「社会的ルール」を前進させてきた四つの時期のすべてが、日本社会に影響を与えることなく過ぎてしまった、というのが、これまでの偽らざる歴史でした。この立ち遅れの克服こそ、日本社会が担っている大きな課題だということを強調したい、と思います。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2017年8月3日より転載)