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『資本論』刊行150年に寄せて①・・「資本主義」−−マルクスの命名が世界語になった/社会科学研究所所長 不破哲三

誕生して300年は無名のまま

マルクス肖像(1867年)

 私たちは自分たちが生きているこの社会を、「資本主義」という名前で呼んでいます。いったい、こういう呼び方は、いつ、誰がはじめたのか、ご存じでしょうか。

 いまから150年前の1867年9月、マルクスが、その生涯をかけた労作『資本論』第1巻を刊行した時、その冒頭、第1篇第1章のいちばん最初の文章を、次の言葉ではじめました。

 「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は・・」(新日本新書版①59ページ)

 これが、「資本主義」という呼び名が世界に広がる出発点となったのでした。

 それまでにも、この社会の仕組みや運動の法則を研究した経済学者は大勢いました。なかでも、アダム・スミス(1723〜90年)やデヴィッド・リカードウ(1772〜1823年)は、いわゆる古典派経済学の代表者で、マルクスも大いに敬意を払った大先輩でしたが、自分が研究の対象としたこの社会に特定の名前を付けることなど、まったく考えませんでした。彼らが、その著作で、自分たちの研究対象を表現する言葉は、いつも「社会」一般、あるいは「国民」一般でした。

 なぜ、そうなったのか。この人たちには、この社会は、人間社会が長い歴史を経て到達した普遍的、一般的な形態であって、特別の名称で呼ぶ必要のある特定の社会形態だとは考えられなかったのでした。

 『資本論』では、資本主義社会の歴史は16世紀に始まるとしていますが、この社会はマルクスが命名するまでの約300年間、その生活を無名のまま過ごしてきたことになります。

「資本主義」という命名の意味

 マルクスは、社会変革の運動に踏み出し、経済学の研究を始めた最初のころから、この問題では経済学の先人たちとまったく違った立場をとっていました。人間社会がその歴史のなかでさまざまな段階を通って発展してきたこと、その社会は大づかみに見れば、社会の土台をなす経済の仕組みによって段階が区別されること、自分たちが生きているこの社会は、古代の奴隷制や中世の封建制につづく最後の階級社会であること、そして社会の歴史はそこで終わるものではなく、この時代がっくり出した高度な生産力を基礎にした未来の共同社会に引き継がれるだろうこと−−−社会にたいするこういう見方を、同志エンゲルスと共同して早くから作り上げていたのです。

 では、その立場で、現代社会をどう名付けるべきか。この呼び名の問題では、2人とも苦労したようで、このことを相談した手紙も残っています(エンゲルスからマルクスヘ、1852年9月)。マルクスは、最初に出した経済学の著作『経済学批判』(1859年)では、ブルジョア社会」という言葉を選びました。しかし、支配階級だけを社会の代名詞とするこの表現では、どうも満足がいかなかったようで、執筆準備のメモには、1860年ごろから「資本主義」という言葉が登場するようになりました。

 そして、1867年9月、いよいよ『資本論』第1巻の刊行とともに、マルクスが命名した「資本主義」という名称が、この社会に冠せられることになったのです。

その時、日本では

大英博物館の読書室でマルクスがいつも座っていた席

 この時期は、日本では、明治維新前夜の動乱の時代でした。当時の年表を見ると、67年9月=薩摩・長州・安芸3藩の挙兵討幕の約定、10月=将軍徳川慶喜が大政奉還、11月=坂本竜馬、京都で暗殺、68年1月=鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争開始、3月=西郷隆盛・勝海舟が江戸城無血開城の会談など、激しい騒乱の記録が続きます。

 歴史の本では、日本は、明治維新を転機に資本主義的発展の道に足を踏み出したと、よく書かれますが、実は、この時の変革の当事者の頭には、「資本主義」という言葉などはまったくひとかけらもありませんでした。

学問の分野でも世界語に

 『資本論』第1巻の刊行部数はドイツ語で1000部でしたから、本そのものがそれだけの宣伝力をもったわけではありませんが、「資本主義」という言葉は、国際的な運動のなかでは急速に広がり、やがて今日の社会を表現する当たり前の呼び名となってゆきました。

 学問の世界では、少し遅れたようですが、1895年、『資本論』の最後の巻・第三部がエンゲルスの編集で世に出たころには、「資本主義」という名称はすでにかなりの市民権を得ていたように思われます。そして20世紀にはいると、マルクスとは立場を異にする経済学者や社会学者が、「資本主義」という表題をもった著作を堂々と公刊するようになりました。

 ドイツの経済学者ゾンバルトの『近代資本主義』(1902年)、同じく社会学者マックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』(1904年)は、その代表的な現れでした。もはやマルクス命名のこの言葉の世界的な広がりを押しとどめる力はどこにもなくなっていました。

 今年は『資本論』刊行150年という記念の年ですが、マルクスを学ぶ人、学ぼうとする人たちだけでなく、「資本主義」という言葉を日常語としている世界のすべての人々にとっても、記念すべき年としてよいのではないでしょうか。

21世紀の資本主義の前途は?

 マルクスは、『資本論』で、この社会をあらゆる角度から徹底的に研究しました。『57〜58年草稿』と呼ばれる最初の草稿を書き始めたのが1857年、それから膨大な草稿を積み上げ、『資本論』第一部を完成して刊行したのが1867年でした。

 初版刊行の6年後、第2版の刊行のときに、マルクスは、その研究方法を、現存するもの、つまり資本主義の「肯定的理解」のうちに、「その否定、その必然的没落の理解」を含むものだと述べました(第2版への「あと書き」1873年1月、同①29ページ)。これは、自分の立場が、資本主義社会の単純な否定ではなく、資本主義社会が人間社会の歴史的発展のなかで果たしてきた役割を誰よりも深く理解するとともに、歴史的使命を果たしたのちは、来たるべき次の社会に席を譲る必然性があることの解明にある、ということです。

 現在、世界の資本主義は、マルクスが命名して以来の150年の歴史のなかでも、最も深刻だといえる危機と矛盾のなかにあります。

 21世紀に入ってから、ブルジョア経済学の世界でも、「ポスト資本主義」という言葉が一種の流行語になりました。中身は多種多様ですが、そこには、資本主義擁護を基本的な立場とするブルジョア経済学の目でも資本主義が現状のままで存続しつづけるとはいえない、今日の事態の重大さがあらわれているといえるでしょう。

 世界の資本主義の現状、そしてまたより広い今日の世界の現状は、「資本主義」の名付け親マルクスの目から見ると、どのように見えるのか。この連載では、その問題を探ってゆきたいと思います。

(つづく)

(「しんぶん赤旗」2017年8月1日より転載)