福島県南相馬市原町区に住む菅野(かんの)恒夫さん(65)は、東京電力福島第1原発から約21キロ離れています。「緊急時避難準備区域」ですが、約800メートルで20キロ圏内の「警戒区域」です。境目に位置し、「とどまっていてよいのか。避難すべきか悩んだ。孫がいるからね」と話します。
「この周辺地域10軒のうち、孫たちを避難させていないのは私のところを含めて3軒だけ。孫のいるところはみんな避難している」。
■得意先失う不安
塗装・吹き付け工事の有限会社「原町美装」の取締役会長を務める菅野さん。小学校や幼稚園、公民館などの工事を請け負ってきました。「何十年も地域に密着し、地域の人たちの信頼で商売している以上、別の地域への移転は得意先を失いかねない」。健康被害の不安もありましたが、とどまることを選択しました。
「原発さえなければおもしゃくない(不愉快な思い)気持ちで暮らすことはなかった。万が一、孫が成長したときに健康被害が出たら悔やんでも悔やみきれない」
一日も早く原状回復してほしいことから「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟に家族で加わりました。
菅野さんの祖父母は、南相馬市から北海道に開拓農民として移住。開墾して大豆や小麦を作りました。農業で生計を得るのは困難でした。菅野さんは中学を卒業すると塗装の仕事に就きました。「5年は見習いで下働き。5年がすぎて親方から『独立してよい』と許されて21歳のときに南相馬に戻って塗装業を始めた」
アパートの塗装をしていたときに東日本大震災に漕遇しました。「北海道に住んでいたときにあった十勝沖地震(1968年5月)と比較にならないほど激しい揺れだったし、気分がわるくなるほど長く揺れた」とふりかえります。「思わず座り込んだ。あのときの恐怖は体に染み付いている」
■原発全部廃炉に
長男夫婦と孫たちは仙台市に避難。菅野さん夫婦は愛知県岡崎市に避難しました。
1カ月ほど県外での避難生活の後に南相馬市に戻りました。仮設住宅ではなく自宅に戻った菅野さんたちのような被災者には支援物資は届きません。食べ物にも不自由していたころ、日本共産党の荒木千恵子市議らの支援で困難を乗り越えることができました。
東電が福島第1原発をつくるときには現場作業所のプレハブをつくりました。「『安全だ。安全だ』と言われ続けた。爆発するなどとは思いもよらないことだった」
まもなく原発事故から3年になります。
「原発は全部廃炉にすべきだ」と考える菅野さん。「原発再稼働は、東京を含めた全国のエネルギー政策の大問題。太陽、風、波、水など自然エネルギーに変換すべきだ。心までズタズタにした放射能被害。孫の代まで引きずるわけにはいかな
い。われわれの代で終わりにしたい」
(菅野尚夫)