「人生最後のたたかい。負けるわけにはいかない」。いわき市民訴訟原告団世話人の佐藤光義さん(80)は、最高裁までたたかい敗訴した40年前の福島原発建設差し止め訴訟の雪辱をはたすことを誓っています。
■英語教師38年間
福島県南相馬市に生まれ、福島県内の中学・高校に英語の教師として38年間勤めました。
退職後は、医療生協の理事長を務め、不登校の相談所を開設しフリースクールも運営、公立図書館を充実させる運動など精力的に取り組みました。「9条大好き人間」です。
兄は中国戦線で戦死。祖母からは「兄ちゃんの敵をとるんだぞ」と言われて育ちました。
終戦間際、南相馬市の原町区にあった軍需工場が、陸軍飛行場に隣接していたために米軍の空襲で銃爆撃を受けて、4人の死者を出しました。東北で初めての空襲被害者でした。このときに佐藤さんは、米戦闘機グラマンの機銃掃射に遭うものの命拾い。学校での授業が危険となって神社やお寺で分散授業となりました。
戦争が終わったときは小学3年生でした。それまでの軍国主義教育が手のひらを返すように否定され、教科書は墨塗りになりました。男女共学となり、隣の席に女の子が座るようになりました。
文部省(当時)が作った「あたらしい憲法のはなし」は「戦争の放棄」で、「いまやっと 戦争(せんそう)はおわりました。二度(にど)とこんなおそろしい、かなしい 思(おも)いをしたくないと 思(おも)いませんか。こんな 戦争(せんそう)をして、日本(にほん)の 国(くに)はどんな 利益(りえき)があったでしょうか。 何(なに)もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。 戦争(せんそう)は 人間(にんげん)をほろぼすことです」と教えています。
■壊滅的被害受け
戦争直後は「学級崩壊」状態で、混乱していましたが「真面目になる契機」も。「憲法大好きになった原点」も「あたらしい憲法のはなし」でした。
生まれ育った南相馬市は、東日本大震災と原発事故による放射能汚染で壊滅的な被害を受けました。
南相馬市小高区の20キロ圏内の警戒区域に住んでいた姉一家は仮設住宅暮らしを余儀なくされました。5年7ヵ月たった今も仮設暮らしです。「仮設では死なせたくない。亡くなる前に公営住宅に移したい」
佐藤さんが生まれ育った故郷は、国と東電によってメチャクチャにされた。津波に流されただけでなく、避難生活で体調を壊し、早死する原発開運死が増えています。
「いとこの一家は亡くなりました。当時、高校1年と2年の私の孫たちの将来が心配です」
無病息災が取りえの姉は、認知症が進み、姉の介護のために「南相馬通い」が頻繁となりました。
新潟県知事選挙で、原発再稼働に慎重な米山隆一さんが当選しました。「新潟県民の73%が再稼働に反対。原発はいらないと考えています。これは新潟県だけのことではありません。典型的な世論の表れです。国と東電は姉たちを何年流浪の民にしておくのですか。この責任は誰にあるのでしょうか」
(菅野尚夫)
(「しんぶん」赤旗2016年11月11日より転載)