「情けなく悲しい5年間でした」。福島県浪江町の「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」(今野秀則団長)原告の石井絹江さん(64)はそういいます。「豊かで美しい古里の幸と暮らしを台無しにした国と東京電力に責任をはっきりさせたい」と原告になりました。
東電福島第1原発事故で国は浪江町津島地区が放射能で汚染されて高い放射線量となっていることを知りながら「パニックになるから」という理由で町民には知らせませんでした。避けられたはずの被ばくでした。
「あいまいにはできない」と決意しました。
東日本大震災・原発事故後5年5カ月。帰還困難区域の津島地区は、いまだ除染もされず放置されたままです。
「町の人たちの役に立ちたい」と、石井さんは浪江町職員として42年間働きました。
■「衝撃を受けた」
「3・11」のときは、津島地区唯一の医療機関である「津島診療所」の係長でした。通常は1日40人ほどの受診者でしたが、着の身着のまま避難した町の人たちが薬を求めて診療所に殺到しました。いつもの10倍近い患者でした。
石井さんは、臨時の受診窓口の設営などで奮闘しました。全町避難となり、津島診療所は二本松市東和地区、岳温泉、安達運動場と転々と移転しなければなりませんでした。そのたびに重い荷物の運搬に携わり、正座ができないほど膝を痛め、身体障害者の認定を受けました。
町の産業振興課にいたころには、山菜やキノコの加工製品の開発に力を入れました。周囲を山に囲まれた津島地区は「宝の山」。それが放射能で汚染されたことに「衝撃を受けた」といいます。
国は、森林除染についてあいまいな態度に終始しています。国は里山を中心とした除染を行う考えを示していますが、「果たしてどこまで踏み込んで行くのか?」。山林が8割を超える津島地区で森林除染をしないことは、地域住民に「戻るな」と言うに等しいことなのです。
原発事故が起きる前から、山菜やキノコ、野菜などを加工して東京へ出荷する際に、町として宅急便代を助成し、商品は30種類、年間1000万円ほどの売り上げがありました。花卉(かき)にも力を入れて浪江町のリンドウは「東北農政局長賞」を受賞したこともあり、「東北一」高い評価を得ていました。自身もリンドウを2反の畑に栽培してきた石井さん。「町民とともに歩んできた」と自負しています。
5月から6月にかけて釣鐘(つりがね)状の赤みをおびたかわいい花を咲かせ、黒色の小さな実がびっしりとっくナツハゼ。ブルーベリーと同じくジャムに加工します。しそ科の植物エゴマは、油を抽出してエゴマ油として商品化しました。4年後をめどに、道の駅で売り出す計画を練っていた矢先に福島原発事故に遭遇してしまったのです。
■「悲しそうな目」
夫は30頭以上の乳牛を飼う酪農家。「乳牛の胎児は人間が胎内から引っ張り出してあげる手助けが必要です。産婆役は私の仕事でした」と石井さん。
夫は、2011年5月末まで避難せず牛の世話をしてきました。線量が高く、乳をしぼっても出荷できません。最後は、牛を殺処分にせざるを得ませんでした。「かわいい牛たちの悲しそうな目。切なくて耐え難い思いでいっぱいでした」
2012年3月に浪江町を定年退職した石井さん。「自然豊かで美しい古里は写真の世界だけになりました。帰ることは考えられない状況です。せめて生まれ育った土地に眠りたい」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年8月11日より転載)