3月11日(2016年)の出来事です。
わたしは、津波被害の大きかった南相馬市鹿島区の南海老の海に行きました。
風は強く、白い波しぶきが立っていましたが、堤防の向こうの波打ち際に花を供えました。
次々と車がやって来て、津波で流された集落の方々が海に向かいました。
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皆一様に黙って、2時46分を待っていたのです。誰かを待っていると、本来自分のものである時間を、待っている相手に吸い取られてしまうような感覚にとらわれるものですが、地震の時を待つというのは、生き残った側の悲しみや後悔や喪失感に同調するというよりは、死者の存在に全ての感覚を開いていくような時間でした。
そこへやって来たのが、練馬ナンバーの1台の黒いワンボックスカーでした。
ジーンズにてらてらしたサテンスタジャンというラフな格好の男性5人組がくわえ煙草(たばこ)で車から降りてきました。彼らは、もやもやしゃべりながらあちこち指差していたかと思うと、ご遺体が打ち上がったかもしれない場所に煙草の吸い殼を投げ捨て、「仕事」をはじめました。
望遠レンズを取り付けた一眼レフのデジカメ2台を襷(たすき)掛けにしているカメラマンらしき男性は、シャッターを切っては他の2人に見せていました。おそらく、雑誌かネットメディアの「取材」だったのでしょう。
2時46分にサイレンが鳴るまで、彼らは「そこからは登れない!あっちから回って!」などと大声を出していました。
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黙祷(もくとう)の後、わたしは、津波で仙台方面が、原発事故で上野方面が寸断されたままの常磐線原ノ町駅前にある南相馬市立中央図書館に移動しました。
わたしは死者が過ごすことのできなかった「今」という時を意識しながら、日常生活を送ろうと思いました。近頃わたしは図書館2階の学習席で仕事をしているのです。
3時50分、ちょうど南相馬の沿岸部に津波が到達した時間でした。
貸し出しカウンターに、黒タイツに短パンにニット帽というハイキングに行くような格好をした20代前半とおぼしき男性が現れました。彼は少しおどおどした声で司書の女性に尋ねました。
「あのぉ、福島の原発見に行きたいんスけど、道わかんなくて、図書館出て、右? 左?」
「え……」と司書の女性が面食らっていました。
「浪江? あ、双葉だったかな? 原発見に行きたいんスけど、右ですか?」と、彼は図書館の外を指差し、なぜ教えてくれないんだろうというような顔付きで駐車場の方に出て行きました。
彼らの「取材」記事を読んだわけではないし、彼が原発「観光」に来た動機を尋ねたわけではありませんが、この地で営まれている生活と労働、そして祈りを踏み荒らすようなことはしてほしくない、と強く思った一日でした。
(ゆう・みり 作家 写真も筆者)(月1回掲載)
(「しんぶん赤旗」2016年3月28日より転載)