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原発事故 絶望に寄り添い・・NHK仙台 大森淳郎ディレクターに聞く

大森淳郎ディレクター
大森淳郎ディレクター

 きょう3月13日、NHKBSプレで放送するドキュメンタリー「赤字木(あこうぎ)」(後2:00)。福島県浪江町の小さな集落・赤字木は「帰還困難区域」に指定されています。100年は人が住めないと言われる中、住民の手で始まった村の歴史の掘り起こし。2時間の特集番組はその取り組みを糸口に古里を見つめます。NHK仙台放送局の大森淳郎ディレクターが担当しました。

(渡辺俊江)

 2011年3月15日。大森さんらNHKのETV特集チームは、原発取材で福島へ。事故が起きてから4日後でした。30キロ圏内の実態を克明に記録していきます。

 2日後、大森さんは赤字木へ足を向けます。「浪江町の住民に『あこうぎ』と聞きましたが、どんな字を書くのかもわからなかったです」。放射能を測定すると80マイクロシーベルト。以来、日本でもっとも放射線量が高い地域として「赤字木」

の名があがるようになります。「ネットワークでつくる放射能汚染地図」(5月15日)として放送しました。

 13年には「放射能汚染地図3」を制作。福島で増え続ける自殺の問題や、阿武隈高地の生き物への放射能の影響を研究する科学者の研究を追います。命を絶った男性は赤字木に住み、鳥や魚は赤字木のものでした。

 「何をやっても赤字木に行きつく。僕にとっては特別な場所になったんです」

歴史を子孫にと

 仙台へ転勤し、取材を継続。福島市で開かれたシンポジウムで、赤字木の歴史を編纂(さん)したいという村民に出会います。

 「ポツリと発言するんです。『子々孫々になんとか残したい』と。その気持ちに寄り添いながら、今回の取材を進めていきました」

 天明の飢饉(ききん)、藩の過酷な取り立て。明治政府が進めた国家神道で村の素朴な信仰は否定されます。日露戦争、太平洋戦争で村の若者が出征。戦後は出稼ぎに追われ、ゴルフ場開発にも翻弄(ほんろう)されます。

 「そしてとどめの原発事故ですよ。戦争、過疎、疲弊していく地方。そこにつくられる原発。一つの力の下、深いところでつながっている気がします」

汚染地図を作る

 原発事故でちりぢりになった住民。110世帯すべてに大森さんは接触しました。

 「働くばっかだったよ。牛を育て畑仕事」(女性)、「田んぼだけじゃ、まんま食えない」(原発誘致に同意していった男性)、「原発はたいへんなもの。村に帰りようがないんだもの」(男性)。番組に登場する人々の声です。便利なところでも、豊かなところでもない。生き抜いてきた先人一たちの姿、労働の痕跡を伝えます。

 大森さんは1957年生まれ。東海村の原子炉が臨界に達した年でした。82年、NHKに人局しドキュメンタリー制作を続けますが、原発の問題を自分の仕事として考えたことはありませんでした。そこへ福島の原発事故。ETV特集「戦争とラジオ」(09年放送)を手がけ、先輩に取材する中で戦時の「大本営発表を信じていたわけではなかったが、局でそれを口にはできなかった」話を聞きます。

 「大震災が起きて、戦後の日本の間違っていたところが変わらざるをえないだろうという見方がありました。でも、5年たって忘れられたようになっていないでしょうか」

 番組は、村に通って放射能を測定し″放射能汚染地図″を作ろうとする村人の姿も追います。大森さん自身が5年前に取り組んだ活動でもあります。

 「負けないぞ、絆がある。世の中にあふれているのはそんな情報です。原発事故がもたらした絶望、死ぬほどの苦しみ、根こそぎ奪われた人間の気持ちってどんなものなのかと思います。まず希望ありきという番組の作り方は、僕はしたくなかったです」

(「しんぶん赤旗」2016年3月13日より転載)