
畜産業の佐藤貞利さん(68)は、東京電力福島第1原発から約10キロの福島県浪江町立野で230頭の牛の哺育(ほいく)・育成を営んでいました。
■積み上げた40年
生後60日以内の素牛(もとうし)を商社から預かり、6カ月育てて出荷する仕事です。
「牛の哺育・育成をしている農家は北海道がメーンです。浪江町では私くらいでした」
預かった牛が病気や死亡すれば損害となり「デメリットの高い仕事。獣医がいないと大変ですが40年間培った知識と技量で獣医なしで哺育・育成できた」と言います。
佐藤さんの家は代々養蚕農家でした。高校卒業後に自衛隊に入り、輸送業務を7年間していました。
20代後半に浪江町に戻り、畜産業を始めました。
東日本大震災と福島第1原発事故が起きると浪江町は全町避難となりました。230頭の牛は置き去りにするほかありませんでした。
川俣町の小学校体育館に避難。「雑魚寝で一つのおにぎりを4人で分けて食べました」。その後、猪苗代町のリゾートホテルなど各地を転々としました。
佐藤さんが妻と5人の子ども、両親たちと暮らしていた浪江町の大きな家。現在は、福島市の4畳半2間の仮設住宅で、夫妻2人で避難生活が続いています。子どもたちとはバラバラになりました。
2011年4月、浪江町に取材に入ったカメラマンからの情報で、置き去りにした牛が生きていることが分かりました。
「一刻も早く助けたい」とあせるものの、福島第1原発から20計キロ内の浪江町立野の自宅と牛舎は、当時警戒区域に指定されていて入ることができませんでした。
一時帰宅が認められたのは同年6月になってからでした。
生きていたのはわずかに18頭。それも保健所員によって殺処分されました。水を飲もうと狭い水路に入り、はい上がれずに死んだ何頭もの牛のしかばねを見ると涙がこぼれて止まりませんでした。
「今でも牛の夢を見る。『食わせてくれ。水を飲ませてくれよ』とすり寄ってくる牛たち。何もできないでいる自分。泣きながら目を覚ます」。「3・11」から間もなく5年になるものの悪夢が続いています。
■牛たちの敵討ち
「牛たちの敵討ち」と「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原告に加わりました。佐藤さんの浪江町の自宅と牛舎や「地獄」となった水路などは、3月17日に実施されることが決まった福島地裁の現地検証の場所になりました。
「なんで牛を殺さなければならなかったのか。国の方針は『邪魔なものは殺せ』という。裁判官はすべてを見てほしい。地獄の修羅場となった現場を、研ぎ澄ました目をそらすことなくしっかりと見てほしい」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年2月8日より転載)