わたしは2012年3月から、臨時災害放送局「南相馬ひばりエフエム」で「ふたりとひとり」という番組のパーソナリティを毎週務めています。
臨時災害放送局というのは、暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生した場合に、その被害を軽減するために役立つことを目的とする、あくまで災害時に臨時に機能する放送局です。その性質上わたしは無報酬でパーソナリティの仕事を引き受けました。正直に言うと、1年後には閉局されるだろっと思っていだのです。まさか、3年も続くとは−−。今日までに164回放送され、328人もの南相馬の方々にご出演いただきました。
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先日は、地元の建設会社に勤務するMさんと、Mさんの叔母であるKさんのお話を収録しました。
お二人は、津波でご家族を亡くされました。
Mさんにとっては祖父様とお母様、Kさんにとってはお父様とお義姉様です。
津波で全壊したお二人のご家族は、南相馬市原町区小沢地区にありました。
海沿いにある50世帯しかない小さな集落です。
津波の被害を免れたのは、わずか2軒でした。
「車はすぐに見つかったんです。祖父は中にいました。でも、母はいなかったんです」と声を詰まらせたMさんに代わて、Kさんがハンカチで目頭を押さえながら話してくださいました。
「小沢は、集落全体で一つの家族みたいでしたよ。今晩はホッキめしにしよう、ということになりますよね。じゃあ、白いご飯もべたいから、お隣さんが炊いたご飯をもらおう、みたいなお付き合いを、みんな普通にやっていたんですよ。だれそれさんらの人参がよくできてたから、今日はカレーにしよぅとかね」
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わたしは、翌日、小沢地区に行ってみました。
津波が1階を突き抜けた家が、まだ何軒か残っていました。濃い霧がかかっていたせいか、Mさんが勤める建設会社の重機は、壊れた堤防と橋の間で静止していました。
風景の中で唯一動いていたのは、手首の脈のように細い牛川という名の小川だけでした。
わたしは、震災以前にひとびとがここで営んでいた暮らしを想像しました。
南相馬は、原発事故後、汚染された土地として報道されることが多いのですが、事故以前にひとびとか営んでいた暮らしぶりを知ろうとしなければ、彼らの痛みに近づくごとはできません。なによりも重要なのは、彼らの失われた暮らしを想像し、彼らの痛みを悼むことなのではないでしょうか。
(ゆう・みり 作家 写真も筆者)(月1回掲載)
(「しんぶん赤旗」2015年8月3日より転載)