11月14日土曜日に、福島県の二本松駅前で行われた「復興なみえ町十日市祭」に参加しました。「十日市祭」は、明治初期に農家の収穫が終わった旧暦10月10日に始まったイベントで、震災前は600メートルの目抜き通りに300以上の露店が並び、3日間で延べ10万人もの近隣市町村住民が訪れていたそうです。
浪江町は原発事故によって全町が避難区域に指定されています。
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相馬市で避難生活を送っている根本洋子さん(73)にお誘いのお葉書をいただき、わたしたち家族は浪江町民の方々のバスに同乗させていただくことになりました。バスは朝9時に南相馬市原町区を出発し、仮設住宅を回って、約2時間をかけて浪江町役場がある二本松に到着しました。
バスには、根本さんの中学1年生になる外孫の郁弥くんも乗っていました。
郁弥くんは震災前にお父さんを交通事故で亡くし、お母さんをサーフィン中の事故で亡くしています。浪江町で暮らす母方の祖父母に引き取られ、ようやく新しい土地と新しい学校に慣れた矢先に原発事故が起こり、再び転居と転校をしなければならなくなったのです。
郁弥くんは、南相馬市内の公立高校に通うわたしの息子と並んで座り、少し離れた座席にわたしと根本さんが並びました。
「郁弥は震災当時小学校2年生でした。避難のとき、体育館でみんないっしょになるでしょ? 教育ばっぱ(おばあちゃん)だと思われると嫌だから、郁弥のランドセルや教科書はうちに置いてきたんですよ、すぐに帰れると思ったから。それっきり『警戒区域』になって帰れなくなるとは思いもしませんからね。郁弥、一時帰宅のたびに『ママのランドセルを取ってきて』って言うんですよ。『あれは、ばぁちゃんがお金出したもんだから』と言っても、『ママと選んだランドセルだ!』って言い張るんですよ」
根本さんのお宅がある浪江町苅宿は放射線量が比較的高いために「居住制限区域」に指定されています。根本さんご夫妻は、放射性物質が付着しているかもしれない物を郁弥くんに触れさせたくない、と考えているのです。
「娘の携帯電話も、わたしが使っていたら、『ママの携帯電話を返せ』って……」
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郁弥くんのお母さんがテトラポッドに激突して亡くなったのは、浪江の請戸(うけど)海岸でした。 、
「警察から連絡があったとき、動転して海岸のどの辺りなのか訊(き)き忘れたんです。でも浜に行けば、郁弥の泣き声が聴こえるだろう、と思ったんです。そしたら、あの子、泣いてなかったんです。小学校に上がったばかりの子が、ママの財布から運転免許証を取り出して警察の身元確認に協力して、ママの携帯電話を握りしめて遺体のそばに立ってたんですよ」
9月頭に、わたしは根本さんご夫妻の一時帰宅に同行し、娘さんのご遺体が打ち上げられた海岸に向かいました。しかし、請戸一帯が津波瓦礫(がれき)・被災車両・被災家屋解体の廃棄物の仮置場となっていて、近づくことさえできませんでした。
わたしたちは大型トラックが行き来する炎天下のアスファルトの上で、海の方を黙って眺めるしかありませんでした。
(ゆう・みり 作家 写真も筆者)(月1回掲載)
(「しんぶん赤旗」2015年12月7日より転載)