畠雄一さん(47)と妻の幸子(ゆきこ)さん(47)は、福島市飯坂町でモモ2・8町歩、リンゴ1反歩、洋ナシ1反歩、サクランボ1反歩、梅若干を栽培する果樹農家です。
両親は昭和30年代の中ごろ、稲作や桑、養蚕が中心だった農業を果樹や野菜に変えました。リンゴ「東北7号(現在のフジ)」を植えたのが始まりでした。
畠さんは調理師でした。妻の幸子さんも勤め人で農業の経験のないまま、40歳のころ、両親が高齢となったことから「220年以上続く農家を継ぎました」。
■根気のいる作業
約500本の果樹への受粉、花や実の摘み取りなど、元気で丈夫な果実を育てるのは根気のいる作業です。1本の木に3万から4万咲く花や実を10分の1以下になるまで摘み取るのです。
草刈りだけでも2日間はかかりました。果樹に満遍なく日があたるように地面に反射シートを置くなどしておいしく美しい果物を育てるために手間を惜しまずにかけました。
「私たち夫婦と祖母、妹の家族でやり切った。人を雇ったならば採算が合いません」と言います。それだけに「収穫の喜びはひとしお」でした。
収穫した95%を直売所で販売しています。残りの5%ほどを福島県北農民連の産直カフェに出しています。「おいしかった」と消費者の声を聞くと「あ、やって良かった」と感じました。
東日本大震災のときは「やばい!」と思いました。阪神・淡路大震災のときは大阪にいて、板前の修業をしていた畠さん。
「東日本大震災はそのときの揺れよりも大きい」と思いました。「体験したものしかあの恐怖は分からない」。東京電力福島第1原発事故は地域住民を襲い、果樹園などに放射能が降り注ぎました。当時、小学4年と2年の子どもたちを仙台市に1週間避難させました。
続いて襲ってきたのは、福島県産の米、野菜などの価格の大暴落。モモは出荷制限になりました。モモの最安値のときには1キロあたり100円台まで落ち込みました。
果樹の幹などを高圧洗浄し、除染しました。「風評被害も加わり3・11後は収入が3割減です。その上にTPP(環太平洋連携協定)の大筋合意。関税のない安い外国産の果樹がどっと入ってくる。どうなるのだろうかと不安はあります」
■原発もTPPも
畠さんは、東電や国が原発事故について責任を認めていないことに怒りを感じ「責任を明確にさせるために生業(なりわい)訴訟の原告になりました」。
畠さんは、7年前から果樹園の新規規模拡大をしてきました。ところが東電は、この規模に拡大した分の賠償をしないのです。
「原発事故後は原発稼働ゼロでやってきました。再生可能なエネルギーで足りました。原発なくてもやっていける。自然エネルギーの割合を加速していけば生命を脅かされるようなことはありません。再稼働もTPPも反対です」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年11月22日より転載)