「3年になるのに時間は止まったまま。何にも変わらない。復興は見えない」。飯舘村長泥(ながどろ)区長を務める鴫原(しぎはら)良友さん(63)は、東京電力福島第1原発事故から3年を前にしてそう語りました。
■牛飼育を生業に
村の74%が山林で、自然環境に恵まれたなかで育てられた牛は「飯舘牛」のブランドとして高く評価されてきました。
「牛と話をするときが一番癒される。ストレスも消える」と、目を細める鴫原さん。牛の飼育を生業(なりわい)として二代目。6頭の牛とコメ、野菜の栽培などで暮らしてきました。
生活が一変したのが原発事故発生後、1カ月になる2011年4月。国が飯舘村を計画的避難区域に指定。全村避難が開始されてからです。
3年前の3月15日、原発事故の放射能は、南東の風で雨から雪に変わり、村降り注ぎました。しかし、福島第1原発から北西に30キロ~50キロ離れている飯舘村も危険な事態におかれていたことは知らされませんでした。避難が開始されたのは4月になってからです。
鴫原さんは、牛の処分などで「実際は5月まではとどまっていた」といいます。
長泥地区の約50世帯、180人は、原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)に集団申し立てを行い、このほど、1人50万円、子どもと妊婦100万円の和解案が提示されました。鴫原さんは区長として住民の要求をまとめました。
被ばくによる不安への慰謝料の支払いは初めてです。
現在、福島市内の公務員宿舎で避難生活を送る鴫原さん。1年ごとに居住契約を更新する形で暮らす避難生活です。「いつ追い出されるのか不安。わが家で暮らすという安心感がない。せめて復興住宅を作ってほしい」。
■「一緒に模索を」
飯舘村は、12年7月に「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の三つの区域に再編されて分断されました。長泥地域は「帰還困難」地区になり、立ち入りが制限されています。
「6ヵ所のバリケードがあって5年間は自由に戻れない。自分自身の生き方が問われている」。
鴫原さんには復興への夢を持っています。
「モデル地区を作り思いのある仲間と飯舘牛を復活させたい」。昨年、「ひとめぼれ」の試験栽培を鴫原さんの土地で行い、10月、3年ぶりに稲刈りを行いました。「土に触れて癒された。収穫は一番の楽しみ。牛についても試験的な飼育をして再建への道のりを模索すべきだ」。
国と東電に対して「被害者の声を真摯(しんし)に聞いて対応してほしい」と、上から目線の対応を批判します。
「いつも一方的に押し付けようとする。わがら(私たち)の話は聞かない。おたがいが話して、どうするのかを考える。希望をもたらす方法を一緒に模索したい」と、国や行政に要望する鴫原さん。
「村に爆弾を落とされたような状況なのだから、どうしたいのかわが(自分ら)で決めるなら村もまとまる」