福島県富岡町からいわき市に避難している渡邉克巳さん(68)は、東京電力の福島原発事故後について「地獄へ突き落とされたかのようです」と話します。
渡邉さんは、1991年3月、22年間勤めた県立高校の英語の教員を退職し、家業のみそ製造販売業を継ぎました。富岡町で食物残漬(ざんさ)を利用した有機肥料工場の誘致、有機農産物による特産品開発、都市から人を呼んでの農家・田舎体験など循環型の「グリーンツーリズム構想」を仲間とともに着々と進めていました。
娘3人を育てた渡邉さん。東京で働いていた二女に「跡を継いでくれるように頼みました」。二女は結婚して家業を継いでくれました。孫も生まれ、「3世代5人家族が苦楽をともにして、協力しながら楽しく暮らしてきました」。
■再興に向け奔走
原発事故は、こうした営みを一瞬のうちに吹き飛ばしました。全町避難。警戒区域となった富岡町。数力所の避難先を経て新潟県で二女と孫に合流しました。その後、二女と孫はそのままとどまり、新潟暮らし。二女の夫は、郡山市で事業を再開した職場で仕事を始めました。
渡邉さんの妻も郡山市のアパート暮らしです。
渡邉さんは、事業の移転再開を行政から支援されることを知り「代々続いてきた家業をつぶすわけにはいかない」と、いわき市の借り上げ住宅へ移り再興に奔走。「県の融資も得られる」ことになりました。
ところが、12年8月、東電は「みその製造機器は使える用途の数が少なく汎用性がない」という理由で「賠償は困難」というのです。これまでの努力や苦労が裏目に出て、借金を残すだけの結果となりました。
「3・11」以後、苦悩を強いられ、「原発事故さえなかったなら!」と4年が経過しました。
原発事故は「自分の物の見方や生き方を変えた」と渡邉さんは思っています。「原発事故前は、国も東電も安全だと宣伝してきました。実際は事故が起きた。間違っていたことが証明されました」
「危険とうすうす知りながら放置してきた私も間違っていた」と、後悔します。「無知を排し、真実を知らねばならない。単なる物知りではいけない。行動が必要」といいます。そして、司法の判断に期待し、避難者訴訟の原告に加わりました。
■国と東電に責任
いわき市に避難して「素晴らしい仲間」と出会いました。「原告団の弁護士、支援者たちは自分のことのように避難者たちに寄り添い、連帯してたたかってくれます」
「自分が変わらないと世の中も変わらない」と語る渡邉さん。「原発の再稼働を容認することは福島で起きていることすべてを受け入れることになります。それを全国民が覚悟すべきです。地球環境をさらに悪化させる原発事故を引き起こした国と東京電力。司法は、彼らを断罪し、日本社会に正しい方向性を判決で示してほしい」。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年8月3日より転載)