「国は再稼働をしようとしている。第2の福島がまた起きる」。福島県いわき市の吉田浩(よしだ・ひろし)さん(68)は、東京電力福島第1原発事故から4年4ヵ月がすぎて危機感を強めています。「福島の事故から国は何も学んでいない」ことが次々と起きているからです。
「このまま幕引きさせてはならない」と強く感じています。元の生活をかえせ・いわき市民訴訟原告団事務局次長を務める吉田さん。定年後は「地域の人たちとネットワークをつくり、当たり前の幸せを求めて暮らしていけたら」と、生活設計をしていました。「そこにくさびを打ち込まれたのが原発事故」でした。
「『3・11』から2ヵ月間ぐらいは混乱が続き、水の確保が困難で、1カ月以上は風呂に入れなかった」状態が続きました。
■師の呼びかけに
いわき市民訴訟原告団長の伊東達也さんから「一緒に国と東電とたたかおう」と、原告に誘われました。「師と仰ぐ伊東さん」からの呼びかけに快諾しました。
福島県の沿岸部に原発が建設されているころは「なんとなくやばいな」とは感じてはいたものの、当事者として運動に加わることはありませんでした。
当時、吉田さんは、電電公社、現在のNTT(日本電信電話)で働いていました。1985年に電気通信事業法が「改正」され、同公社の民営化と、大規模な人減らし「合理化」が強行されました。
組合活動に専念していた吉田さんは、青森県に1年以上の配転をさせられました。ここで地域の仲間に誘われてギターマンドリンクラブや人形劇サークルなど青年活動に参加しました。
その後、東京への3年半の不当配転の攻撃を受けました。全国転勤もありうるとする「11万人削減」などの「合理化」が打ち出されました。通信産業労働組合福島支部の結成に参加しました。「自分の将来を見すえた生き方をしなければ」という思いを強くしたからでした。
「社交ダンスや山登りにも行きます」という吉田さん。「芸能・文化など豊かな生活の中でこそ人間らしく生きられる」と考えるからです。青春時代に培いました。
■来ることを拒む
福島第1原発から43キロ、第2原発から32キロの距離に住む吉田さんは「私たちは幼い孫たちの体に将来にわたって影響があってはと思い、こちらに来ることを拒みました」と悲しみます。
「孫と私たちジージとバーバとの距離はますます離れ、悲しい思いをさせられている」と語り、沖縄に住む孫たちに会うために1年間に3回ほど出向き、飛行機代などに40万円はかかっている、といいます。
「国と東電は、今回の原発事故を自分たちの落ち度として、人災であることを認め、あやまり、つぐない、福島県の全原発を廃炉にすることを求めます」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年7月19日より転載)