「課題が見えてきました。福島のことを伝え続ける重荷を背負いました」・・。
いわき市の浜通り医療生協の工藤史雄(くどう・ふみお)さん(37)は、米ニューヨークから帰国してそう語りました。
原水爆禁止福島県協議会は、米ニューヨークで4月27日から始まった核不拡散条約(NPT)再検討会議に県内12人を派遣。工藤さんは、その代表の1人として参加しました。
■署名6万人分
福島県内で6万人分集まった核兵器禁止と「原発ゼロ」に賛同する署名を国連側に提出。各国の非政府組織(NGO)らと交流しました。
工藤さんらは、NPTの会議初日を傍聴しました。
「各国の代表は、核兵器廃絶を訴えたあとにみな『核の平和利用』を口にするのです。各国の代表は『核の平和利用』については容認する立場です。原発の危険性や福島で何が起きたかについては触れない。広島、長崎の核兵器の悲惨さから出発していないから『核も原発もNO』とは言えない。私たち福島県民が果たさなければならない役割が明確になったと思います」
4歳と1歳5ヵ月になる2人の娘の父親です。「『3・11のとき、長女は生まれて4ヵ月でした。石川県の能登にいる妻の妹が妻と長女を迎えに来てくれました。仕事上、私は福島を離れられません。長時間、幼い子を車に乗せて避難することに心配はありましたが、これ以上状況が悪化する前に移動すべきだと決断しました」
3月15日の早朝に出発。16時間かけて石川県に到着しました。「あとになって分かったのですが15日から16日にかけて放射線量が非常に高くなっていたことが分かりました。当時線量計などありませんでしたし、『今日は線量が高いから外出しないように』という、いわき市からの広報を知ったのは出発した後でした」
■政策的救済を
工藤さんは妻と子どもを石川県に送り出し、病院の機能維持に専念しました。
「病院の水道が止まりました。1日20トン確保するために苦労しました。2週間後にようやく機械浴の患者さんを風呂に入れられるようになりました」と、4年前の混乱ぶりをふりかえります。
いわき市民訴訟の原告に家族4人で加わりました。この訴訟は、いわゆる低線量汚染地域で日常生活を余儀なくされていることへの責任と継続的被害に対する政策的な救済を認めさせるための訴訟です。
工藤さんは、「下の子ができたとき、夫婦での葛藤がありました。子どもの健康維持のための定期的な健診、放射線についての正しい教育、不安に寄り添った徹底した除染などを訴訟で勝ち取りたい」と、原告になった思いを語ります。
「原発を廃炉にするまでには30年、40年とかかります。廃炉を見届けられる最後の世代として歴史的な使命を負っていると自覚して声を大にして『原発ゼロ』を訴えていきます」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年6月11日より転載)