「5年後も行きたいです。福島をもっとアピールしないといけないと思いました。これで終わらせたくありません」と話すのは、福島県原水協の石堂祐子さん(56)です。
4月27日から5月22日まで、ニューヨークの国連本部で開催されたNPT(核不拡散条約)再検討会議への要請行動に福島県から参加した12人の代表の一人です。
NPT再検討会議は1970年の条約発効以来、5年ごとに開催され、東京電力福島第1原発事故後初めての会議。石堂さんはニューヨークの街を「Remember FUKUSHIMA(福島を忘れないで)」と書いた手作りの横断幕を持って行進しました。
■ニューヨークで
「道行く人の半数が福島のことを知っていました。行進を見ていたおばあちゃんが『遠くからよく来てくれましたね』と抱きしめ、ブレスレットをプレゼントしてくれました」
石堂さんたちは、ニューヨークで反核運動をしている女性たちと交流会を持ちました。原発事故の被害実態などについてスピーチしました。
「4年たって今も避難している人がいること、子育て最中の人たちも住んでいること、悲観しているだけでなく前向きに生きていることなどを話しました。『大変でしたね。がんばってね』などと激励されました」
青森県出身。結婚を機に夫の故郷、福島で暮らすようになりました。32年になります。
森林が県全体の7割を占める福島県。山を歩き、山菜を採り自然を満喫してきました。「それができなくなって残念です」
4年前の東日本大震災のときは福島市内の原水協の事務所で仕事をしていました。棚の本や資料が散乱し、壁にもひび割れが。「原発は大丈夫だろうか」。そのとき、一瞬不安がよぎりました。
■発信者になって
4年たって気になるのは「3月14日、放射性物質が一番降り注いだときに給水車を待つために息子と外で2時間並びました。スーパーに商品がなくなり、開店を待って外で並んでいたときにも放射能にさらされた」ことです。
「あのとき、きちっとした情報が公開されていたのなら、子どもたちの被ばくは避けられた」と、原状回復と損害賠償を国と東電に求めた「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」の原告になりました。国と東電の責任をきっちり追及しようと思っています。
「今回の訪米で、原発事故による低線量被ばくが先の見えない生活を強いて非人間的なことをつくり出すと伝えてきたつもりです。核は人間が扱ってはいけないものなのです」
原水協の仕事を5年務めてきて、「自分が被ばくし、原発事故ってどういうことなのかを実感し、広島、長崎の被爆者の気持ちがより理解できたと思います」と振り返ります。
「広島・長崎の被爆者の中にも避難先を転々とされた方がおられました。皆さん本当にショックを受けていました。黙っていてはだめだということです。発信する側になってみて、訴えなければならないことがたくさん見えてきました」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年5月25日より転載)