東京電力福島第1原発事故で全町避難になっている福島県浪江町津島地区。二本松市杉内仮設住宅で避難生活を送る伊東千代子さん(86)と大内孝夫さん(82)は、満蒙開拓団として中国の黒竜江省(こくりゅうこうしよう)訥河(のうほう)県下学田に入植しました。戦後帰国し浪江町津島地区に移住しました。戦争と原発、″二つの国策″に翻弄(ほんろう)された被災者の今を取材しました。
(菅野尚夫)
伊東千代子さん(86)
千代子さんは13歳のとき、両親と子ども4人の家族で福島県旧上川崎村(現二本松市)から「王道楽土」「五族協和」の国を築くというスローガンで宣伝された満蒙開拓団に加わりました。
冬はマイナス30度にもなる酷寒の地。ジャガイモ、大豆、小麦などをつくりました。「薪(まき)もなく草や小麦ガラなどを燃料にしてしのぎました。一つの風呂を6軒の家で共同使用するものでした」
■「死の逃避行」ヘ
ソ運は1945年8月9日、日ソ中立条約を無視して中国東北部に侵攻。それから千代子さんたちは死の逃避行へ。髪を切り、顔は墨でぬり、男の子に変装。ジャガイモの入った倉庫に息を潜めてソ運軍の通り過ぎるのを待ちました。
両親を中国で亡くし、親代わりで妹弟3人を守り、チチハルを経て佐世保に帰国しました。
故郷の上川崎村に帰った後に、49年に結婚し浪江町津島に入植しました。
木を切り、開墾や根切りに使う唐鍬(とぐわ)で根っこを掘って耕し、炭を焼いて生計をたてました。「あんな山奥。みんな嫌になり実家に逃げ帰ったこともあった」
食うや食わずの血のにじむ苦労で3町歩(約3ヘクタール)の田畑を開墾、和牛18頭から始まり、乳牛18頭まで増やしました。夫とは97年に死別。3人の子どもを育て、独立させて1人暮らしでした。
■再び避難生活に
2011年3月11日、東日本大震災と福島第1原発事故は、再び千代子さんに避難生活を強い、「つらい3年10カ月を送らせる」ことになりました。
3月16日になって津島地域の世話役がきて逃げるように告げられました。二本松市東和の体育館に20日間避難。「いつまでも苦労するのなら死んだ方がいい。死ぬにも死にきれない」と、毛布にくるまると自然に涙がこぼれました。
賞味期限の切れた凍ったおにぎりをストーブで温めて食べました。その後、横浜市にいた娘の家に半年避難。二本松市杉内仮設住宅ができて1人暮らしが続いています。
「安住の地は定まりません」と、千代子さん。「国と東京電力に責任を明確にさせたい」と、津島地区原発事故の完全賠償を求める会に加入。「安全だ」と偽りの宣伝で原発をつくり、さらに、原発から北西方向へ放射性物質が拡散する予測がSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク)によってできていたのに、住民には告げられずに放射能にさらされました。
国策に2度裏切られた千代子さん。「もうどこにも逃げたくない。戦争は二度といやだ。原発の再稼働はだめだ」。きっぱりと国に挑みます。
(つづく)
(「しんぶん赤旗」2015年1月27日より転載)